このブログのライターの1人、礼子さんは関西の方なのですが、時折、大学の私の講義を聴きに、座敷童のようにやってこられます。もぐりの生徒ですね。
わざわざ新幹線に乗って来られる価値があるのか? ずいぶん高い講義料だぞ、と思うのですが、一年の間に何度も来られたりします。もちろん迷惑ではないのです。念のため。
この礼子さん、私の講義を聴きに来ると、よく不思議体験をされます。といっても、コナン・ドイルとか江戸川乱歩とか横溝正史の霊が講堂に現れるとか、そういう怪しげな話ではありません。
前期の講義の時には、私がテキストである「ノー・ソリューション」に収録されている「うつし世は悪夢」の講義を行っているときに、物語の舞台である三重県名張市にある「赤目四十八滝」やそこで取材中にサンショウウオを見た話をしたときに聴講に来られ、その後、地元に帰られてから、こんなことがあったそうです。
「レストラン街の階の手前に和食器などの店があります。金魚物はないようだったのでそのまま奥へ。招き猫や猫のグッズの店がありました。金魚鉢を見つめる猫のポストカードがあったので見ていました。買う時店主さんと猫の話に。そのとき店主さんにかえるは好きですか?と聞かれました『いえ』と答えたら残念そうだったので『どちらかといえばサンショウウオが好きです』と答えたら驚かれました。その店の姉妹店のかえるショップをしている人がもと赤目四十八滝の日本サンショウウオセンターの職員さんだったそうです」
先日も後期の講義に来られ、その後、2人でお茶をしました。そのときに流れで、京都の鞍馬寺の話になりました。
私はもう16年くらい前になるでしょうか。そこへ奥さんと2人で取材に行ったことがあります。
奥の院への参拝も含め、秘祭と言われるウエサク祭に参加し、そして、そのときの旅行で二人目の子供、長男を授かったという話をしました。
別れた後、礼子さんは、事故で遅れが出た新幹線の待合いで岡山をぶらぶらした挙げ句、JR駅に戻ろうとしたら、交差点で偶然、知人に遭遇。その人が今度、鞍馬寺に行く予定になっているとの話を聞かされるといった偶然に……。
これらは普通では考えられない確率です。
だいたい赤目四十八滝は非常に規模が小さな施設しかなく、当然、関わっている従業員も数えるほどしかないはず。その関係者が礼子さんの周辺で、私が「赤目四十八滝」と「サンショウウオ」の話をした講義日に、間接的にさえ影を現すことなど、あり得ない偶然です。
鞍馬寺のこともそうです。ご本人も仰っていますが、一分違ったら、礼子さんはその知人に出会っていません。ましてやその知人が、私が口にした鞍馬寺に行く予定になっているなど、偶然にしては出来過ぎています。
シンクロニシティ(意味のある偶然の一致)であることは間違いないのでしょうが、礼子さんは私が呪術か魔法をかけているのではないか、とちょっぴり思っているようです。まあ、それくらいあり得ない偶然なわけで、そう思っても当然かも知れません。
人間は皆、魔法使いですから、そういう観点に立てば私もそうです。しかし、私は呪術やまじないのような怪しげなことはやってません。
スピリチュアルな活動をされているある先生が、私のことを「言霊の人」と称しました。
言霊(ことだま)というのは言葉を神霊視した表現で、言葉に不思議な力が宿っているという思想です。その人は私が何気なく口にしていることが、その場にいる人間にことごとく関わっていることに驚き(もちろん、私は何もその人たちの個人情報は知りません)、そのようなことを仰ったようですが、たしかに言葉には不思議な力があると思います。
そして発した言葉が現実を左右したり、創造したり、言葉そのものの力で人を癒したりということが、現にあるということを、私はよく目の当たりにします。
聖書をお持ちの方は、最初の「創世記」の一ページ目を開いてみて下さい。そこには「初め神が天地を創造した。地には形がなく、何もなかった」と記され、「そのとき神が『光よ。あれ』と仰せられた」とあります。
すると、光が創造されたのです。
つまり言葉は創造の源なのです。厳密には言葉だけでなく、意識や思考のことまで含めて指すと見た方がよいのかも知れませんが、人間にとって意識や思考をまず表現できるのは言葉です。
言葉は音波(バイブレーション)となって相手や世界に響きます。
良き言葉は、良きことを招き、悪しき言葉は悪しきことを招く。だから、悪いことは口にしない方が良い、というのが日本には古来からある考え方です。これも言霊の思想から出たものです。
だから、占星術予測をして好ましくない未来を解読したとしても、私は「大丈夫」という一言を付け加えたり、苦難が予測される未来にもできるだけ光を見出して書いておこうとしています。末尾にいつもお決まりのように載せる「人の心に愛が、世界に調和が……」といった祈りのフレーズも、好ましくない未来や読む人の気持ちを中和させるために付け加え始めたものです。
たとえば今話題の、ある予言者は、未来に数々の絶望的な災厄が起きることを言いふらして回っていますが、これは悪しき言霊を大量に世に送り出しているのと同じです。実際に彼の予言を検証すると、事前に発していた地震の予知などまったく当たっていないのですが。
悪しき言霊は、十分に人の意識の中に浸透し、「それが起きる」と信じさせることができたら、もしかするとそのような現実を本当に起こさせる創造力を発揮するかも知れません。
私が「占星術予測」に慎重な理由はいくつかありますが、その一つがこれです。
予測はやはり危機への警告として成されるべきで、そうでなければ意味がありません。現在や近い未来にもはや創造されつつある苦難や危機から目を背けても、それらを消滅させることはできません。
雨が降ったら、私たちは傘を差さねばなりませんし、台風が来たらむやみに出歩くことは避けねばなりません。予測とはそういう機能を果たすべきものです。
しかし、あまりにも予測が一人歩きし、宗教みたいになってしまってはいけないのです。
私の奥さんは、以前にこう言いました。
「他の人間から見たら、世の中にいる予言者とパパちゃんのやっていることは、そう変わらなく見えるはず。だから注意しないと」
たしかにその通りなのです。
このブログをよく読んで下さっている方は、私が占星術を駆使して、できるだけ理性的科学的なアプローチで未来予測を行っていることを理解して頂いているかも知れません。
でも、ざっくりと世の中を俯瞰したとき、へたをすると私もまた怪しげな予言者の一人に過ぎなくなってしまう危険が常にあります。
そして、「当たれば当たるほど危険」と奥さんが言ったように、予測が的中すればするほど、当然人は信じるようになり、「悪しきこと」を現実化させる可能性があるのです。
私が理想とするのは、このブログの予測記事を読まれる方が、危機を受け止めた上で、楽観的に生きながら、注意だけは怠らないといった、ちょっと矛盾した態度でいてくれることです。だから、悪いことを言われると本当にそうなってしまうような気がする人は読まないで下さいと、<占星術予測に関するスタンス>でお願い申し上げているわけです。
言霊の力は侮れません。
だから今日も私は言います。
「人の心に愛が、世界に調和があまねく満たされますように」