私の家内は、不思議な笑いのツボをしています。
たとえば、私や子供たちが吉本新喜劇のようなものを見て笑っていると、横でぼそっと「どこが面白いのかわからん」と冷めた調子で言われます。なんだか、見て笑っているこっちが低俗なのかな、という気分になります。
それでいて、奥さんは訳の分からないところで受けます。私たちがまったく受けないところで、妙に受けています。娘は言います。
「母の笑いのツボはわからん」と。
まあ、どっちもどっちのような話なのですが、笑いのツボにも個人差はあろうかと思います。でも、どちらかというと、奥さんは少数派のような気がします。
まあ、それでも今年の12月18日で20周年を迎えようかという夫婦です。そんな歳月を重ねるまでもなく、私は奥さんの笑いのツボはなんとなく分かっています。
たとえば、NGシーンを集めたような番組では、奥さんは笑いが止まらなくなったりします。私が言う、しょうもないギャグやジョークでも、いきなり笑ったりします。
でも、ドリフのコント(古いね)とかN1グランプリみたいな「作られた」ものでは笑わないのです。
吉本新喜劇のようなものは、一種のパターン化したものがあり(もちろん時折新ネタは出てくるのですが)、これはお定まりの安心感があります。分かり切っているのにおかしい、というのは、詰まるところその芸人の口調や表情やアクション、芸風に反応しているわけです。
ドリフの加藤茶の「ちょっとだけよ」とか、志村けんの「勝手にシンドバット」とか、高木ブーが毎回プールに落ちるのやら(とにかく古いね)、こういったギャグに笑うのは、その滑稽さに反応していると考えられます。
ところが、うちの奥さんは、こういった決まり切った芸風には、もうまったく反応しません。たぶん、ですが、はじめて見たときにはちょっとは笑う可能性がありますが、作られたものである以上、ほとんど笑いが取れないはずです。作為的なものは×なのですね。
これは、奥さんが同じ笑いでも非常に高度に洗練されたものか、あるいは無作為に提示されたものにしか反応しないことを物語っています。
逆に言えば、予測不能なもの、セオリーにないものに反応するわけです。
日本人というのは、ところが、予測可能なものが好きです。
以下の論旨は、拙著「デウス・エクス・マキーナ」にも関連しているのですが、たとえば「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」のような時代劇、これらには必ず決まったオチがあります。ウルトラマンもそうです。推理小説にも(本格タイプのものなら)、ラストでかならず名探偵(か、それに相当する人物)の謎解きがあります。
これらは日本人の大好物なのです。
なぜなら、完全にお約束された結末があることが分かり切っているからです。
その安心感に包まれながら、その枠内でものを楽しむ、というのが、どういうわけか日本人は好きなのです。
これは民族性が、そもそも保守的であることを物語ります。もちろん個人は別です。大局的な話として、です。
考えてみれば、落語や漫才といったものも、そういった傾向があります。同じネタ、同じ芸を、さらに深みに達しながら演じ、お客もネタを知っていながら笑っているというところがあります。
私たちはいったい、彼らの何にそんなに笑っているんでしょう?(……すみません。理屈っぽくて。このブログ、いつも理屈っぽいですよね。分かってはいるんですけれど)。
まあ、別にそういった芸に笑うことが悪いわけはないし、むしろ笑いこそが地球も個人も救うと思っているんですが。
まあ、ともかく。
奥さんは、そういう意味で日本人的ではないのです。
その奥さんが、最近、妙に受けた漫画があります。
……次回に続く。