推理小説は悪影響を与えるものか? |  ZEPHYR

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ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

今日から大学の後期講義がはじまるzephyrです。

このブログは、今のところコメントを承認制にさせて頂いております。
というのは、一時期、「逆援交」とか「セレブ」がどうのこうのとか、まったく無関係なコメントが毎日のように貼り付けられたことがあったからです。
今ではそれは影を潜めましたが、この先も当分はこの状態にするしかないだろうなと考えています。
というのは、占星術に関することを書き続ければ、当然反論や反撥を示す方も出てくるだろうからです。良識や客観的で冷静な批判精神から出た意見ならば、傾聴にも値しますし、このブログにコメントを承認してUPすることもやぶさかではありません。

しかし、読む人が不愉快に感じたり、非理性的であったり、感情的な攻撃や決めつけであったりした場合、やはり承認はできないだろうなと考えます。
ですから、スルーされてしまうコメントが発生する可能性はありますし、私も一々それに反応や返信はできないし、まあ、人間ですから「したくもない」というのをご理解下さい。
「じゃあ、あなたは自分にとって都合の良いコメントは承認し、都合の悪いものは承認しないんですね?」
という質問に対しては、「その通りです」とお答えしておきます。

都合というのも、私個人がどうのこうのいうよりも、このブログはすでにかなりの数の方に読まれているわけで、その公益に沿った都合というのがあります。またZEPHYRというグループの公益もあります。
私個人のことだけだとしても、皆さんも同じだと思いますが、かりに自宅にヤクザが押し入ろうとしたら、やはり拒絶するのが普通です。
ヤクザまで行かなくても、非常に不愉快なものをまき散らす近隣の迷惑な人、しつこい訪問販売員、狂信的な宗教勧誘者など、こういった人を我が家に入れる入れないは、その家の住人の判断です。
「うちに入らないで下さい」という権利は、誰にもあります。
このブログは私と他少数の人間が管理する共同の家です。そこに訪問者を招き入れるかどうかはこちらの判断になってしまいますので、その点は皆さんも同じだと思いますので、ご理解下さいませ。

じつは私は昨日、ある本を読んでいました。
その中には、「予言」に関わる著作を書いたために世の中から批判され、一時期は「自殺」も考えたというある方の過去が語られていました(実話です)。
「このままでは大変なことになるかも知れないから、生き方を変えよう」
というその方の意志や主張はほとんど無視され、人類の未来の思っての推論は、非科学的で狂信的だと否定され、罵倒され続けたようです。
その後、歳月の経過と共に、その方が警告していたことはオゾンホールの出現やCO2の増加など、今声高に叫ばれている数々の問題が表面化するようになって、証明されてしまいます。
そんなことはあり得ない、と科学者が否定していた現実が、地球に実際に起きてきてしまったのです。
私は「予言」が実際に当たるかどうかよりも、その方の主張されていたことに価値があるかどうか、ということの方が重要に思うのですが。

なんとなくなのですが、この方のように自分がなってしまう危険はあるな、というのは感じています。
「当たれば当たるほど、危険じゃない?」
家内にもそのように言われました。
昨日、その本を読んだのも、まあ、虫の知らせというのか、予感というのか、そういうものが働いたからかも知れません。
だからといって、占星術を駆使した予測を中止するつもりは今のところありませんし、また占星学上の観点から見たより良い生き方みたいなものを書くのをやめようとも思っていません。

といったところで、一つのコメントをいただきました。
これについては承認してUPするつもりはありません。主旨としては以下のようなものです。
「あなたも推理作家の1人だろう? これまで殺人ゲームとか変なトリックの話を書いて、世の中に悪影響を与えてきたわけだから、星が世の中に悪影響を与えているのと同じだ。だから偉そうなことは言わない方が良いのでは」
この方ご自身の文章は、もっときついものですが、この方の考えでは「推理作家は世の中に悪影響を与えている」というのが決定事項としてあるようです。

実をいうと、この問題で私はかつて深く悩んだことがあります。推理小説には謎やトリックは欠かせない要素です。
中には登場人物など、作者の作りたいストーリーに沿って動くだけの機械のようになってしまい、人間らしい暖かみを備えないようなものもあります。つまりは殺人をゲーム的な主題においた、世間には悪影響を与える文学形態なのではないか?
それでもなお、推理小説を書き続ける意味があるのか? という自問です。あくまでも自問です。他の推理作家の方々には関係のない話で、自分自身で納得できる答えを見つけなければなりませんでした(私は他の作家の方々の創作を非難するつもりは、いっさいありません)。

これは若い頃の自分にとっては、非常に辛い経験でした。創作の根幹に関わる問題なので。
しかし、結局は「自分」なのだということに気づきました。
幸いにも、というべきか、私が過去に行ってきた創作のほとんどが、トリックや謎はあっても、結局は犯罪を犯さざるを得なかった人間の悲しみや苦悩というものを主題にしてきています。
ミステリー・イベントで使用する短編でさえ、テーマに重きを置いています。少年期の憧れ、家族の絆、喪失することの悲しみ、過去の苦悩からの脱却、愛……一つ一つの作品に、私は人間らしいメッセージを込めてきたつもりです。
たしかに若い頃の創作には、稚拙でテーマ表現が上手くできていない作品もあろうかと思います。
しかし、そうした初期作でさえ、「推理小説のなのに読後感が非常にさわやかだ」という評を、ほとんどの場合、もらっています。私の書いたものは、どうも嫌な印象を残さないようなのです。別に自画自賛のつもりはありません。たまたま私がそういう作風であったというだけです。

きわめつけは、一通のファンレターでした。「業火」という作品を読んだ思春期の少女からのお便りでした。
「感動で涙が止まらず、これを読んで自殺を思いとどまりました」

私たちは自分自身の行いに責任を持ち、自分が理想とする生き方をすればよい(=創作をすればよい)。
そう痛感しました。
たしかにコメントを下さった方の言うように、推理小説が世の中に与えている悪影響というのも、どこかにあるかも知れません。いや、あるだろうと思います。だからといって、私が推理作家という肩書きを持っているだけで、すべてをひとまとめにしてしまえるものでもないでしょう。

たとえば今年世間を騒がせている食品偽装をやった会社にも、そんなことにはまったく無関係で、一生懸命働いていたまったく違う部署の社員もいるはずなのです。
でも、その会社の一員だから、その人が意見を言うことも許されず、たとえば環境を良くしようとか、世の中のためになることをしようとか、そういう発言をすることも許されない、というものではないでしょう。

もう一つ言えるのは、推理小説も根本的には人間の物語で、きちんとしたテーマ性を持つ作品には、良質なものもある、意外にそれは多いということを知って頂きたいです。
たしかに毎日放送されるサスペンスドラマのようなものを見て、これと同じようなものが推理小説だと思い込まれたら、誤解も発生するかも知れません(ドラマにも良いものもあると思いますが、やはりサスペンスものはたとえ良い原作から生み出されたものでも、どうしても殺人事件の刺激、展開の面白さばかりが優先されたものが多いと思います。内面を表現するという意味では、小説には及ばないのが普通です)。

世の中に悪影響を与えているということで言えば、推理小説などよりもはるかに影響が大きいと世間で認識されそうなものが、ほかにいくつもあります。すぐに登場人物が殺されていく漫画、ゲーム(殺人ゲームや次々と相手をシューティングして倒していくようなもの)、ポルノ小説やその他のエロティックな雑誌、芸人の顔や体型を笑いものにしたりする、人間の尊厳をおとしめるようなテレビ番組、そしてインターネットのサイトの数々、さらに今の政治もそうだと思います。だからといって、「政治家はもうなにも言うな」では、世の中は成り立っていきません。

時代劇のドラマは、最近では峰打ちが多くなっていますが、最終的には悪の大御所は「切られて」しまう結末が多いですね(暴れん坊将軍みたいに)。今は再放送ぐらいでしか見ませんが、「必殺仕事人」など最終的には「殺し」が結末です。
これらも多分に有害な側面を持っています。
どの程度を許容するかというだけの問題で、「時代劇などフィクションだからいいんだよ」と言われれば、「推理小説もフィクションなんですけど……」ということになってきます。
私など、時代劇などは物語の時代背景がまったく違うから、娯楽として単純に楽しめばいいのではないかと思います。多くの人が私と同じ意見だと思います。
そして推理小説はたしかに、私たちと同時代の物語が多く、だからこそ有害度が違うんだよ、と言われるかも知れませんが、そういった物語程度で影響を受けてしまうとしたら、それには別な原因を探った方が良いのではという気がします。

私は日本の今の荒れ方は、根本的には家庭や家族関係の中にあるだろうと思っています。そこからすべてが派生してきているのであって、子供を愛情持ってちゃんと育てていれば、その子は推理小説を読んだくらいでは曲がりません。

しかし、全体的傾向として悪影響はゼロではない、と思います。
だから、そのことについてはすでに述べたような考えに至り、少なくとも自分自身は、きちんと人間を描いていこう、トリックや謎だけに終始するような物語は決して書かない、ということで道を見つけております。ですから、今後、私が創作するものの中に、人間性を無視したトリックばかりの悪質と感じられるものがあれば、そのときにあらためてご批判下さればいいと考えます。

今日から大学の講義です(私は母校の大学で、ボランティア・プロフェッサーをしております)。
教えるのは「推理小説」です。
先のコメントを下さった方からすれば、とんでもないことに思えるかも知れません。
しかし、推理小説には他の小説にはなかなかない、優れた特質があります。それは違ったものの見方、既成概念に縛られない自由な思考といったものが求められるということです。前期ではこのような観点から、生徒に今あるものに凝り固まってしまわず、自由で新しい見方、教えられたこと以外のものを見つける生き方というものを身につけて欲しいと教えてきました。
同時に推理小説の特性が、謎解きばかりではなく、やはり優れた作品は人間を描いているということも知らせてきました(だから、そういう良い作品を読んで欲しい、と)。
今日からの後期では、物語→文学→推理小説という流れの中で、人類と日本人の意識の深層に閉じこめているものを解き明かし、そのことに理解を深めてもらおうと思っています。その理解は、自分を見つめ直すチャンスになるかも知れません。

さあ、といったところで出かけてきます。
コメント頂いた方には、感謝しております。今の自分を見つめ直す機会を与えて下さいました。
ありがとうございます。