前期の講義を終えました |  ZEPHYR

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ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

今日は大学の講義、前期最後の授業でした。
他の講義ではたいてい試験です。
しかし、私の講義では試験はなく、これまでに配られた合計7回のプリントの提出率と筆記内容が採点対象となります。
せっせと百数十人のプリントを7回分、採点致しました。

だいたい講義を受けている生徒の姿勢で分かってしまうものですが、話を良く聞き、理解している生徒と、そうでない生徒では、同じ一枚のプリントの簡単な設問でも、答える内容が違っています。
話を聞き、自分なりに考えた生徒は、一目見たら分かりますし、実際には出席していない生徒の分まで友だちが代筆したものは、これも内容がまったく同じですし、筆跡でも分かります。もう少し知能犯になってもらわないと、推理作家の目をごまかすことはできません。
といっても、方針としては基本的に加点を重視し、減点は行わないというのがあるので、とりあえず提出されているかどうかが、最も重要なポイントです。
が、しかし。
いくら提出重視とはいえ、白紙で名前と学生番号だけを書いて出すような生徒と、いくらかでも書いた生徒を一緒にはできません。あきらかに不正をはたらいていることが判明する場合もそうです。

今年の前期、私の講義の受講者は、これまでになく、よく静聴してくれました。これは間違いありません。
私の話を聞き取り、理解しようとしている生徒は、はっきり視線を合わせてきます。
こちらを見ています。
百数十人の中に、十数人程度しか、目を合わせる生徒はいません。
しかし、彼らはやはりきちんとした筆記を行ってきます。
中には、こちらが想定した以上のことを書いてくる生徒も。

今日の講義で、最後にプリントを提出してきた生徒は、「さっぱり分かりませんでした」と正直に言いながら、それでもやはりプリントの内容は、聞いていない生徒よりはるかにましでした。そして「先生の講義は面白い」と付け加えてくれました。
百人なら百人すべての生徒の興味を引き、百人に良い解答をさせる講義は、実際には難しい(私が未熟なだけかも知れませんが)。
しかし、そのうちの十人でも二十人でも、彼らの心に何かが残せたら……。
文学と推理小説のすばらしさ、面白さ。
それを通じて、彼らの心のどこかに、大学の短い期間、聞きかじったことの痕跡が残り、それが後の人生で役立つことがあれば、それは私にとってこの上ない喜びの一つです。

まず半期。
9月下旬から後期。
三年目に入り、私もようやく大学の先生が板に付いてきたかも知れません。