遊戯王とポケモンにもの申す |  ZEPHYR

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ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

私は遊戯王のカードゲームができる、45歳の作家です。占星術師でもありますし、大学の非常勤講師でもあります。
先日、倉敷のとある商店街の一角で、カードやマニアックなフィギアとか昔懐かしのおもちゃを売っている店を発見し、そこで遊戯王のカードを買いました。
「子供とデュエルできる人なんです」というと、
「じゃあ、デッキとかも作って?」と、女性の店員さん。
「いくつも持ってます」
「すごーい」
はじめて褒められました(ちょっと嬉しかった)。

それはさておき、「遊戯王GX」が終了して新しい「遊戯王5D's」がスタートするとか。最近、私はアニメの「遊戯王」はあまり見ていない。
面白くないからです。
GXの主人公とストーリーは途中から迷走を繰り返し、ぴしっと芯の通った話ではなくなってしまった。
ただカードを販売促進させるためだけの番組。
そんな印象が強くなってしまった。

もう一つ、同種の傾向を持つのに、「ポケットモンスター」がある。「遊戯王」も「ポケモン」も、その背景にカードに代表される数多くのゲーム商品が存在する。
当初、「ポケモン」の世界はポケモンの数も限定されていた。主人公のサトシが冒険の旅の過程で数々のポケモンや人々に出逢い、成長していく。
「世界一のポケモン・マスターになる」
最初、サトシがよく口にしていた言葉だ。

しかし、私はあるときから「ポケモン」に疑問を感じるようになってきた。
サトシは同士とも友だちともいうべき、ポケモンたちと強い絆を持ち、幾多の旅やバトルをくぐり抜けていって行ったはずなのに、初期にゲットしたポケモンたちは故郷に置き去りにされたまま(オーキド博士のところで養われている)、この頃は画面に現れることなどない。あの可愛かったゼニガメは? フシギバナは? ヒトカゲ(現リザードン)は?
サトシはなぜ彼らを放っておき、新しい土地、新しいポケモンばかりに夢中になるのだろう?

本来、「ポケモン」はサトシの成長物語であり、同時にサトシと共に成長するポケモンたちの物語であったはずだ。
ポケモンと人間の関係は、ペット、あるいは野生動物と心を通わす人間との関係に通じるものがある。
形としてサトシは、かつてかわいがっていた奴らを放置したまま、夢中になって新しい連中を追いかけてばかりいることになる。
これではポケモンと人間の心の絆とやらも、危うい。

これは本当はサトシが悪いわけではない。
番組を作っている大人の都合だ。
新しいカード、新しい商品を売らねばならない大人たちの都合だ。
だからサトシは過去のポケモンたちを顧みない。結果的に。

しかし、これではこのアニメを観る子供たちはどう感じるのだろう。
可愛がっていたものでも、新しい目標を見つけたら置き去りにして、新たなものに向けて突き進んで顧みない。それでもOKなんだ。
そこまで深読みする子供は少ないかも知れないが、無意識にそのような行動を焼き付けられはしないだろうか。
本当は、ポケモンの理想のストーリーは、サトシと共にゲットされたポケモンたちが成長、進化し、サトシと共に強くなり、敗北や挫折も繰り返しながら、より強くなっていく物語ではなかったろうか。
そしてサトシはポケモンマスターとなる。

しかし、このままではサトシは永遠に目指すポケモンマスターになれないだろう。
当たり前だ。
このままでは、彼は真の絆、真の強さを身につけることができない。

娘が言うには、ポケモンを観る子供は順次ローテーションしているから、そこまでは考えないのでは? と。
ポケモンのアニメは娘が7才のときに始まった。11年前である。
しかし、その娘や息子はまだ観ている。
そして現代はDVDもビデオもある。
過去のシリーズを観ることも可能である。

どっちにしても物語として、どちらが良質なのか、いうまでもない。

「ポケモン」と「遊戯王」。
カードを売りたい大人たちの番組であり続けるのだろうか。
商業主義絶対の番組であり続けるのだろうか。

「遊戯王」にしても現存のカードで、無限に近いコンボや物語が可能である。
それではまずいというのは分かる。
しかし、それではカードを使う子供たちだって、自分のカードにすら愛着が持てなくなるのではないだろうか。