本格ミステリーの業 |  ZEPHYR

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― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

ミステリーを書こうとされる方は、読んで頂きたい記事です。

私がミステリー・イベントの原作小説を作成するときに、一番頭を悩ませるのが、犯人を特定させる方法です。もちろん、これはどんなミステリーも同じ悩みを抱えているわけですが、イベント原作の場合、解決編を添付できません(参加者が読んで推理するように作るので、当然犯人を追及するラストがない)。
実はこれは想像以上の難題なのです。
なぜかというと、推理小説において探偵や刑事が犯人は誰であり、その根拠はこうであるということを、物語の流れの中で説明するのと、「ノー・ソリューション」のようにほかで解答を用意するのとでは、説得力がまったく違うのです。
場合によっては、参加者が自分のほうが論理的に正しい解答を出していると強弁されてしまうこともあります。過去のイベントでは、実際、そのような方もごく少数ではありますが、いらっしゃいました。

こうした反省を踏まえ、イベント原作では私は犯人の名前がビシッと導き出されれば良しとするスタイルが、もっともこの形式においては誤解が少ないということを体験的に知りました。
「ノー・ソリューション」には暗号解読の要素が二編盛り込まれていますが、それはこうした理由によるものです。解読がそのまま事件解決につながりますので。
暗号解読ミステリー自体は、私自身はあまり好きではありません。しかし、この形態では駆使せざるを得なかったというのが本当のところです。
しかし、「オルフェウスのダンジョン」の大阪では、これが非常に評判が良かったという意外な事実があります。解答に至らなかった人も「面白かった」と評価してくれ、解答に至った人は「犯人がわかったーーーー!!」とブログで喜びを表現した方もおられます。
実際に正解を解答してこられた方々も、自身の努力が結実し、解明に至ることができたという喜びの大きさを語っておられました。

もちろん、ミステリーには好みもありますから、暗号など使うミステリーに面白みを感じない方もいらっしゃると思います。
しかし「ノー・ソリューション」に解決編をつけないと決めた段階で、私は三つの収録作品のうち、大阪と名張のそれは外せないだろうなと判断しました。他の作品では、どうしても論理の弱さが出やすいだろうなという考えです。
そうしたものを使わない福井の話が初級なのは、非常に話の構造がシンプルで、だからこそ解決編にも誰もが納得できるようになっているからです。
これがより複雑で、高度にすればするほど、この建物は脆くなっていきます。

なぜならミステリーの多くは、Aという事柄をまず推理し、それを根拠にBという問題を照らし、あらたな意味づけを与え、Cという結論に至りますが、話の構造が複雑になれば、必然的にDEFというような込み入ったプロセスになってきます。
このプロセスの中には、初期の推理の上にさらに推理を積み重ねるという、まるでいびつな積み木細工を組み上げるような脆さが生じてくるのです。
そうすれば当然、隙間が生じます。読者はその空隙に入り込んで、まったく別な論理を構築してしまうことがあります。

物語の中で名探偵が絶対的な口調で語れば、読みながら納得させられてしまうことの方が多いでしょうが、そうでない形式の場合は、これは危険が伴います。
「ノー・ソリューション」の収録作のうち、私がこの危険が高いと感じていたのは「うつし世は悪夢」でした。まさに前述のような構造を有しているからです。上級編であれば、当然の帰結なのです。

ミステリーの謎解きルールは(別に明文化されたものがあるわけではありませんが)、あくまでもその物語の中で語られている事実や言動などを元に、「ではそこから何が考えられるか?」という思考を巡らすことにあります。
したがって、登場人物たちの取ったであろう行動についても、限られた紙数の中で可能な限り手がかりを残していますが、もしかするとどこかに空隙が発生しているかもしれません。
もう少しボリュームアップすれば、この辺の空隙はなくなったかもしれませんが、そうすると今後は手がかり過剰になって解きやすくなる危険もあります。
この辺のさじ加減が実に微妙なところです。
ミステリーの持つ難しさ、そして書き手、作り手の大きな悩みが、まさにこれであるわけです。

ただこれからミステリーを書こうとされる方は、上記のような問題があるのだと知っておくことは大切です。が、あまりそこの部分にとらわれない方がいいでしょう。
さじ加減は、まさに料理の塩加減みたいなものなのですが、考えすぎると本職の料理人でも味付けを間違ってしまうものです。
「どの程度にすればいいか」ということを頭で考えるよりも、書きながら感覚で調整しましょう。
料理人が鍋にある材料や水の状態を見て、感覚で塩をつかみ入れるように。
その感覚を養うことが重要ですが、私もあんまり偉そうなことは言えません。人間ですから、間違うこと、薄味にしすぎてしまうこともあります。

ミステリーは論理の文学という一面がありますから(あくまで一面)、犯人特定や謎の解明ロジックが弱いと一流の読み手からはたちどころに手厳しいご指摘を受けることがあります。
しかし、そうした失敗も常に謙虚に受け止める心構えは必要です。

「ノー・ソリューション」のような形式の本を、この先も何冊も刊行できるとは思っておりませんが、私がこの先本格ものを書く場合には、こうした空隙ができるだけ生じないタイプのミステリーを目指そうと思います。
謎それ自体が骨太であれば、推理の上に推理を何段も重ねる必要はなくなります。このあたりのことは、またそのうちにUP致します。