その人の人生に起きることは、その人自身に100%の責任がある。たとえそれがどんなに本人に責任がなさそうに見える出来事でも。
と、前回も書いた。
この件について、どうしても補足しておきたくなった。
私の前言の意図するところは、あくまでも宇宙と自分、世界と自分という大局的な関わりとその法則について述べている。前に紹介した「鏡の法則」も共通の世界観である。
しかし、現実的世俗的問題として、たとえばいじめ問題で、「いじめられる方に責任がある」などと暴言を吐くつもりは毛頭ない。
現実的な関わりにおいて、責任の所在をはっきりさせたり、原因を究明したりするのは、まったく別次元の問題であり、それは当たり前の感覚としてなさなければならないことだ。いうまでもないが。
たとえばいわれなき暴力の被害に遭い、その犯人に責任を問い、賠償を求めることなど、ごくあたりまえのことだ。起きた出来事には自分に100%の責任があるなどといって、泣き寝入りする必要などないということだ。
ただ世界(宇宙)は自分の鏡である。
それもまた一つの真実である。
パズルのピースが自分である。自分というパズルは、自分を取り囲む大きな絵の中に、ぴったりと当てはまるようになっている。
自分の身に起きることは、自分という形が吸い寄せているといえるのだ。
たとえば乱暴者の周囲には、いつの間にか同種の雰囲気の人間が集まるものだ。
スポーツの才能を秘めた若者のまわりには、そのような環境ができやすくなるものだ。
ネガティヴな発想しかしない人間は、自ら幸運を取り逃がすことで不幸を招き寄せているとも言える。
しかし、自分というピースが変化すれば、自分に寄り添ってくる人物、出来事も変化する。
自分が変われば世界(宇宙)が変わるのだ。
これは法則だ。
また別な観点から不幸な出来事を読み解くこともできる。
死別、離婚、破産、暴力の被害、災害による死や喪失。
これらの出来事は、ときには本人の魂にとっては計画的な学びであるということが、生まれ変わりの研究成果から導き出されてきている。
つまり一般的には不幸と認識されることを、あえて本人が選択している場合もある。
したがって不幸な出来事が発生したからといって、自分にそれを招き寄せる悪い要因があるのではないかと疑心暗鬼にならなくても良い。
ただ、一度そうやって自分を振り返ってみる必要はあるだろう。
しかし、実際にはそういう不幸を体験することが、大きな学びであり、どんなに不毛で無意味に思えることも、魂の上では納得して体験しているかもしれないのだ。
これは私たち作家が、登場人物たちに苦難や不幸を与えるのに似ている。
「愛に溢れた家庭に生まれ、すくすくと健全に育ち、良い学校を卒業して、一流企業で働いて出世、美しく優しい奥さんを得て、子宝にも恵まれ、天寿を全うしました。」
そんな物語を誰が読むのだ?
途中はあほらしくなって読むのをやめてしまうだろう。
主人公が苦難を乗り切る努力をする、その先に大きな成功や喜びを得る。
読者が読みたいのは、どちらかといえばそんなストーリーだろう。
何度も何度も生まれ変わるのが人の魂であるなら、その魂はどんな体験を望むだろう。
破綻のない決められたレールだけを進む安全パイ人生か?
違うだろう。
ときにはそんな人生もあるかもしれない。
しかし、毎回そんなごちそうはいらない。
どんな魂もそう思うに違いないのだ。
だから今、不幸と感じる境遇にある人は、今大きな学びをしていると思えばいい。
自らその学びを選び取っている、偉大な魂なのだと。
事実そうなのだから。