「仮面ライダーSPIRITS」という松枝賢一さんのコミックがある。
これが非常に面白い。10人目の仮面ライダーZX(ゼクロス)を主軸に、歴代の仮面ライダーがTV放映当時の面影濃厚に登場し、個性を発揮して物語をトータルに新構築している。
たとえば1号ライダーの本郷猛、V3の風見志郎、こういう登場の仕方、こういうキャラクターの描き方、こういう活躍をしてほしいと願うファンの心をくすぐるものになっており、松村さんご自身がライダー・ファンでないとできない芸当だ。
これを特撮ヒーローもののリメイク劇画版と考えるのは簡単だが、ここにもエンターテイメントの精神がある。
受け手が見たいもの、読みたいものを提供する。
これは実は重要な点だ。
平井和正のウルフガイ・シリーズなど、とくに初期はこの傾向が強く、共通するものがあると思う。
「幻魔大戦」という大作で、仮面ライダーの石ノ森章太郎とウルフガイの平井和正がコンビを組んでいるのも、非常に暗示的で、お二人にはどこか共通する要素があったのではないかと思われる。
私はといえば、高校時代は平井和正の熱烈ファンだった。
ウルフガイ・シリーズには魅せられ、何度も読み返した。自分の処女作がSFだったのも、その影響が非常に大きいように思う。
ウルフガイはヒーローものの一つの理想型で、そういった意味でのキャラクター重視を目指す方はご一読されるとよいでしょう。
見たいもの、読みたいもの。
読者はそれがあって本を買ってくれる。
そこを受信し、感応し、それに沿った作品が描けるかどうかというもの、前回の「塩梅」に似た話である。
受信が強すぎ、読者の要望に振り回されると、毎回同じ結末を迎える水戸黄門みたいになってしまう。たしかにそれが見たいという人は確実にいて、そのニーズに応える形で多くのTV時代劇は存続を許されている。
しかし、小説ではそのニーズは異なる。
毎回同じものを求めるわけではない。しかし、同じような何かを求めている。
たとえば主人公の振る舞い、気の利いたせりふ、そして土壇場の逆転など。
だが、一つ間違うと同じ型枠で作られた物語は飽きられてしまう。
ここが微妙な塩加減である。
読者の期待や予想を裏切ることも、時には必要になってくるのである。
しかし、あくまでも本線は踏み外さない。
このあたりの見切りが、やはり書くことでしか埋められない領域、判断だ。
推理小説もこの塩加減は、非常に微妙なものが求められる。
「コード」と呼ばれる本格推理を書くに当たってのルールがあるが、これを遵守してあるレベルをクリアする作品を書けば、本格推理として認められるものにはなる。
しかし、そうした作品を連作する場合や、世間ですでに一つの潮流となっている後を受けて書く場合、この見極めができていたほうがいい。
しかし、これらのことはやはり理論ではない。
皮膚感覚、直感でわかっていないと難しい。
同じ型枠で作られた製品。
その量産は危険を伴う。
今、推理小説の世界で起きている改革と変容は、おそらくそれを受けたものだろう。