いい塩梅になるために |  ZEPHYR

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― the field for the study of astrology and original novels ―
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 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

料理の味の基本は?

「塩」である。

これに異論を唱える人は少ないだろう。古来、人間は肉にせよ、野菜にせよ、まずこの塩を使ってきた。そして現在でも、これなくして料理は語れない。

和洋中、すべての料理の世界で根幹を成す調味料はと問われれば、たいていの人が「塩」を上げるはずだ。

日本にはこの塩加減を意味する古き良き言葉がある。

「塩梅」(あんばい)である。

辞書によると、「味かげん」「体調」「物事のぐあい」などの意味を含んでいるが、原義は味の決め手である塩加減のことを指す。

いいあんばいだ、というときの「あんばい」。

もともとはここからきているのだ。

この塩梅がよくないと、料理はぴしっと決まらない。

この塩梅に相当するものが、小説にもある。

自分が書きたいものを書く。

それが小説創作の第一歩である。そして根幹を成す。

書きたくもないものを、いやいや書くのでは、メンタルな仕事だけに、小説ではうまくいかない。多少のパーセンテージの上下はあるにしても、書きたいという衝動をまったく感じない物語を書くことは難しいだろう。

だが、ここで問題が起きる。

書きたいものをただ書いたのでは、多くの場合、読者はしらけたり、面白くないと感じたり、場合によってはまったく共感もできず、放り出してしまうこともある。

そのような場合、それは作者の独りよがりな創作に終わっている可能性が高い。

つまり読者のことはそっちのけで、自分の書きたいことだけを書くからそうなるのだ。

舞台に立った俳優たちが、自分たちの演技で、観客たちの興味や関心を引きつけるように、当然、小説も読者の関心を引きつけないと、読まれるはずもない。

と、ここでよく陥るのが、読者の関心、興味などを引きたいがために、今一般大衆になにが受けているのかとか、どういう傾向の作品が流行しているとか、そういう外的要因に振り回されることだ。

しかし、これはまったくうまくないやり方なのだ。

流行というのは、どこかで作られている。力のある作家が一人で潮流を作り出すこともあるし、出版社や特定の企業が「売りたい」という意図があってそれを作ることもある。

しかし、どちらのケースにせよ、すでに今あるものなので、それをどうしても後から追いかける形になる。短期的な利益を追求する事業なら、レスポンスタイムが短ければ、追従することもできるだろう。

しかし、小説などの創作にはどうしても時間がかかる。

今ある流行をいかに分析しても、それ自体を追いかけたら、作品ができあがる頃にはブームは下火になっている。

これを理解できない作家志望者は、意外に多い。

どうせするのなら、トヨタみたいに徹底した市場調査をし、膨大なデータを集め、「次になにが望まれるか」ということを高度に予測し、未来に向けた戦略を打ち立てるべきだろう。

しかし、現実には個人でそこまでの情報収集もできないし、客観的な先の予測をたてることも難しい。

車ならニーズを先取りすることも可能かもしれないが、文芸のような不定型な漠然としたニーズを先取りすることは、神でもないと難しいだろう。

人々はその象徴となる作品がそこに現れて初めて、これこそ待っていたもの、と飛びつくことも往々にしてある。いわば人々の集合無意識の中に眠っているその象徴を、作家本人がインスピレーションを得てキャッチし、創作しなければ「先取り」などできないことになる。

これはそういう才能を持つ人でないと難しい。

普通の人が(自分も含めてだが)、そうやって先を予測しようとすればするほど、たいてい迷路にはまりこんでしまうだろう。

結果、あれやこれやに振り回されてできた、たいしたことのない作品を相手に読ませることになる。

私の言いたいのは、ずばり。

「次になにが来るか」などというのは、天に任せておけばいい事柄で、一個人があれこれ打算を働かせても無意味であろうということだ。

人事を尽くして天命を待つ。

それでいいということだ。

で、話は戻る。

塩梅である。

作家は読者に振り回されてもいけない。しかし、読者のことは考えなければいけない。

つまりこれは読者にこびを売ったりおもねっても駄目、流行に色目を使っても駄目だが、執筆時には読者の目というものを十分に意識しなければならないということだ。

この一文を読んで、読者がどう思うか。なにを感じるか。なにを疑うか。どのように先の展開を読み取るか、次になにを読みたいと思うか、どう書けば読者はさらに没頭して読んでくれるか、面白いと感じるか……。

独りよがりでもいけない、かといって読者のことばかり考え、おもねってもいけない。

塩が利きすぎると、作者は自分というものを見失い、読者や外側の世界のことに振り回されてしまうようになる。

これが作家の塩梅である。

料理人が一杯の腕ものに使う塩の量を指先の感覚で見切るように、作家も塩梅の加減を自在にコントロールできなければいけない。

料理人が長い修行の中でその感覚を身につけるように、作家も書くことでしかその感覚は身に付かない。知識がどれほど膨大に増えても、この塩梅が身に付いていないと、いい作品も駄作になる。

塩梅。

その見切りは「心」にある。

料理なら食べる人、小説なら読む人、その人を思いやり、自分のできる最上のものを差しだそうという意識なくして、正しい塩梅は身に付かないだろう。