第二回目の講義を終えて |  ZEPHYR

 ZEPHYR

ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

大学での二回目の講義を終えた。

適応能力が高いほうなので、二度目でかなりリズムはつかんだように思う。


前回は終えた後、ぐったり疲れていたが、今回は前日にゆっくり休めていたこともあってか、かなり余力がある。あるので、今日、これを書いている。



自分が若者達に教えられること、そんなに数多くの引き出しがある訳じゃない。

しかし、できるだけのことはしようと思っている。


この講座は自由だ、と宣言しているので、生徒達がどうするのか、ちょっとした見物だった。先週そういった生徒達もまた来ていたようだし、今週初めてきた生徒達も面食らったようだが、何故か静聴してくれていた。

自分が彼らの関心をひくだけの講義をしているのかどうか、正直なところ自信はないけれど、そんなものはあってもなくても同じだろうと思う。変に自信を持った人間の方が、よっぽどくだらないことを言う危険だってある。


小説家であるということは、こういうときにもたぶん役立っているのだろう。肩書きではなく、能力的な部分で。

小説を書くとき、読者の視点、作者の視点を両方持たないといい小説は書けないと言うことを、前にこのブログにも書いた。今、自分は講義を受ける生徒達のことも考えている。喋る方、受け取る方、その両方の視点を持っていれば、大きな過ちを犯すことはないだろう。


もっとも自分の相手の視点に立った考えが、的を射ない場合もある。その立場に立ったつもりで、実は独りよがりな発想になってしまうこともある。

創作でもこうしたことは起こりがちだ。

そこはいかに自分が一般的な感覚を保持いていられるかどうか、試される部分でもある。


特にミステリー作家なんて職業の人間は、常識を越えた感覚と、その非常識を常識の中に移し替えるバランス感覚の両方を持っていないとダメだ。

だから常識を持たない人間は、ミステリー作家には、たぶんなれないだろう。

その上で型を破っていくことが求められるわけだ。


矛盾。

葛藤。

そんなものが内部にないとミステリー作家にはなれないのかも知れない。