先日、「いま、会いにゆきます」の映画がテレビで初放映された。
テレビ放映ではいくらかカットされたシーンもあったようだが、感動的な物語の映像化、じつによくできた映画だと賞賛を送りたい。
どういう部分に賞賛を送りたいかと言えば、とにかく原作の持つスピリッツに忠実に作られているということ。
テーマは「愛」である。
ただ、それだけ。
ただ映画と小説では、根本的に異なる部分がある。
映画は観客に「見せてわからせる」ようにしなければならない。ほとんどを映像で説明するのだ。
対して、原作の小説は、内面、心を描写することができる。
この違いは実に大きい。
そのため原作小説を読んだ人にとって、その映像化された作品は、どうしても物足りない部分が出てくるようだ。
主人公や登場人物の内面に触れる部分が、どうしても少なくなる。
映画制作者はもちろん、その不足分をどうにかして映像で見せることで解消させようとするが、手法が根本的に違うので限界がある。
また「いま、会いにゆきます」では、映画では完全に欠落した部分がある。
これは作り手のミスではなく、そこまで説明すると、ネタバレになる危険がある上、話が間延びしてしまうから、意図的にカットした部分だと思う。
じつはそれが「伏線」なのである。
原作では生き返ってきた妻、澪が何者なのか、どういう存在なのかということについて、実に巧妙な「伏線」を張っているのである。随所に。
しかも多くの読者は、それを見逃す。
しかし、その伏線が後で何度も食らわされたボディブローのように効いてきて、最後の種明かしの時に大きな説得力を発揮する。
これは実は推理小説のテクニックと同じである。
これがないがために、映画の種明かしはやや「え?」という感じになっている。
じつは推理小説の映画化が難しいのは、この「伏線」が大きなポイント、ネックになっている。
特に謎解きものの推理では「伏線」に大きな意味があるのに、映像でそれを出すと、モロわかってしまう。
文章の中では、「伏線」というのは巧妙に隠しやすい。
やはり手法の違いである。
もちろん、映画と小説という手法自体、優劣はない。
適したものと適さないものがあるだけだ。
小説にできないことが、映画にはできる。それもまた事実である。
そして優れた小説を世の中に知らしめてくれる力、それもまた原作を持つ映画にはあるだろう。
「いま、会いにゆきます」
この素晴らしい小説を世に送り出してくれた、市川拓司さんに感謝を捧げます。
そしてその小説を読んだ全ての人、映画を観た全ての人に祝福を送りたい。