2005年の悟り |  ZEPHYR

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ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

不思議なもので、やめようやめようと思いながら、どうしてもやめられなかったものがある。

それは占いである。

私が占術に目覚めたのは高校生の頃で、いったいなぜそのようなものに凝り始めたのか、明確な記憶はない(私は昔のことはわりとすぐ忘れる方だ。同級生の名前も顔も、今ではかなりいい加減)。

たぶん、だが、当時「天中殺」なるものが大流行していた。

その本を読んだのがきっかけだった(と思う)。

「天中殺」とは四柱推命の「空亡」なる星の作用のことで、その時期に新しいことを始めたら死ぬとか大失敗して破産するとか、すごくセンセーショナルな取り上げ方をされていたのだが、実際に四柱推命を勉強すると、「空亡」も作用する年、作用しない年、また一生涯それを受けない人もいたりと、かなりいい加減な本だった。

その後、星占いと血液型を組み合わせた本を読み、その後、本格的に占術の扉を開いてくれたのが、訪星珠さんの「実践占星術」だった。

この本が占星術の本格的なおもしろさを教えてくれた。

やってみると、「当たってる当たってるじゃん」という連呼で、自分の性格や運勢を夢中になって解読していた。

この本はぼろぼろになりながら、今も自宅の書庫にあり、時々は教本として今でも手に取ることがある良書だった。

その後は怒濤の勢いで、様々な占術に関する勉強をした。


私はたぶんかなり変わった高校生だったろう(同時期に小説も書き始めた)。


しかし、世間一般には「占星術を行うものは地獄に堕ちる」とかいう風説もあるし、聖書にもそんなことが書かれている。

何十人、何百人の占いをこなすうち、自分自身にも疑問を感じることがあった。

「こんなことやっていてなんになるんだ?」

占いなど女々しい作業(女々しいという表現は、かなり男女差別的だとは思うのだが、ごめんなさい)に入れあげて、星の力だとかに振り回されるのは、どうなの?

そんな自己批判が強くなり、何度か占いをやめようとしたことがある。


だが、なぜかその都度、占いを続けさせるような横やりが入ってくるのだ。

「自分だけ最後に占って」とか、今までしてきた人にまた依頼されるとか。

そうやって結局は続けてきたのだが、実際、占星術を学ぶことは面白かった。

宇宙の神秘に触れる思いがした。


今ではもう全ては吹っ切れている。

占星術をやっても地獄に堕ちないと確信しているし、この技術で人のお役に立てることは喜ばしいと感じている。

星の力に振り回されることもない。

占術を学ぶと、初期によく陥りがちなのだが、星の示すものがあまりにも明確なので、運命が星の支配下にあり、どうにもならないと感じてしまう→運命(未来)は決まっているという結論→悲観論。という流れができやすいことだ。

こうなると恵まれた運気の人は恵まれた人生を歩み、不運な人はどうしたって不運なのだということになってしまう。


しかし、それは違う。

先日、手術によってコンディション(運気)を変えた女性の例を挙げたが、人間の未来はどうにでも変わる。


ともあれ、やめなくてよかったと今では思っている。

というよりも、占術は自分にとって重要な意味を持っていたようだ。

その重要なものを捨てようとしたときに、「待て待て」とどこかから制止が入っていたのだろうと思う。一つのシグナルだったのだ。


そんなことを認識させられた2005年でありました。