私は代表取締役ではなく取締役として経営に携わります。


で、あるからには、代表ではないあくまでも取締役としての役割があるはずだと思いました。

それが今日少しだけわかったような気がしました。


代表取締役は組織の中の北極星でなければなりません。

ただし、北極星がたとえ真南の方向を突如向いたとしても、それを受け入れる覚悟のある者。

理解できる人材が取締りでなければなりません。


自分はおそらくですが大丈夫だろうと思います。

ゆれる、ぶれる、成長する、人間ということを理解した上で、私は代表取締役である芸津社長 を信頼しています。


ただし、今後ともにするであろう、社員にとっては、代表取締役は理屈無く北極星でなければならないとも思っています。


ゆれる・ぶれるを許しあえるからこそ、取締役というポジションがあるのでしょう。

そして、それを社員にそのまま露呈しないこと。

組織として同じベクトルを保つこと。


その働きをするのが取締役というポジションなのではないかと思います。


逆の見方をすれば、「代表に存分に迷ってもらえる、ぶれてもらえる」土台つくりをするのが

私と博士 の役割なのだと思います。

抽象的、哲学的にビジネスを捉えてはいけない。
と、思うことがあり綴るエントリー。


私は渋谷東急の屋上(RCカーレース会場になっている)からハチ公前交差点を見下ろす角度でいくつか写真を撮っていました。
金屏風に渋谷の風景を描こうと思いたった時期がありまして。


アマゾンで、腐敗した巨木の根元に大量のシロアリが群がる風景をTVなどで観ていたその記憶とかさなりました。


「ああ。人間ってちっぽけだなぁ」というのは人間の本能。人間活動を商売の意味とする自分にとって必要な観点。
ですが、視点をそれ以上広げて観るのは、危険かな。とも思いました。


とあるキーマンに出会いまして。
稼ぐこと、商売の本質をズバリ指摘されたような気がしたのです。


「要はするかしないか。」
それだけなんだというわけです。


多くの人は、どうやってするか。どのようにやりたいか。
というものを捨てられません。 私も。


自分にとっての幸せとは何か。というものを本当によく理解していないと、したいことをする。ということに選択の余地が生まれるんですね。


私のブログってでも、抽象的なんですよね...

代表取締役は、芸津です。


会社理念、芸津自身のバイタリティ、資金力、どれをとっても彼がイニシアチブを握ることに異論はありませんでした。


株式会社のルールを尊守するのならば、所有者と執行者を明確に区別すべきかも。とは思いましたが、
第一に組織(利益)を拡大させるという目的を無視しては元も子もないだろうと思います。



とはいえ、最近の独立会議はピリピリと(いい意味での!)緊張した空気が流れ。


芸津はますますリーダーとしての風格を着こなしてきたように見えます。


たまに「こわい」と結構本気で思うこともあります。
この怖さ。というのは大事だと思います。
(優しいだけの人間は非情な結果をもたらすことが多いと思いますから。)


「あの人はあんなに怖いけど、その裏には優しさがあるんだよ」と通訳する役目は私は向いているかと思っています。
むしろ、そんなことをせこせこ考えるような芸津でないことを祈るのみです。
というか、通訳しないでも理解しあえる環境を作らなければ。です。

しばらく間があきました。
#私にとってのブログの鬼門とは、「続けること」以前に「元のペースに戻せるようになること」。


何事もなく今に至ったのかというとそうではなく、
私の人生の相当の割合で影響をあたえるような出来事が毎日のように起こりました。


口で、(心で)「覚悟を決める」というのも、リスキーなことなのですが、(軽々しく言ってはいけない。という意味で。)
それがどこまで血骨に染みるほどの自覚なのか、
ということをはっきりさせることは結局生き様で証明するしかありません。


「生き様」だけあって、独立してからはじまる。というものでもなくて、今生きている限りは、一日、一時間、一秒、
私がどう生きるか。ということが証明になるんだ。ということ。


覚悟を口に出すのは、決意表明みたいなもので、将来の自分を確約するようなもの。
(近い将来の自分は絶対やってくれるはずです!...と言っているような感じですか)
覚悟を決める。というのはその確約の実現を限りなく100%に近づけるため、動き出します。という宣言みたいなもの。


そうすると、今の自分のあり方というのが非常に大事になってきます。

世の中、破産したい法人はいないわけですね。

破産は法人の死を意味しますから。


ただ、私は人の死とを天秤にかけた結果、そう判断したんです。

人の命は何よりも尊い。それが身内であればなおさら。


その判断は、死を覚悟した人間にとっては死以上の屈辱になりうるのか。

それは私にはわかりません。


人の尊厳。という領域に差し掛かると、とたんに理屈の通らない世界になります。


ごめんなさい。

これを相談すべきかどうかすら、判断するほどの経験がなかった。


いまこうしてブログに綴るのも、なぜここに書いているのかが自分でわかっていません。


ブログは表現だと思っていましたが、書かずにはいられないので書いている。

私は自分の心の途中経過を見せることが表現だと思っているのだろうか。


悩んで、振れることが人間らしさの表現か。

コカ・コーラの「no reason -理屈じゃない-」というコピーが今でも好きで、ことある毎、自分のフレーズに混じっているような気がします。


それが何故好きなのかということもうっすら気づいています。

認めたくないのですが、私は「理屈っぽい」からなんですね。きっと。


「自分は今こんなことを言っているんだけど、こんなことは実は理屈であって、本当のところ本能はなんといっていることかわからないんだよ」という。理屈っぽいなぁ...

(もう、冠に ”屁”がくっつかないことを祈るばかりです)


理屈じゃなくすき。とか、

理屈云々以前にまずやる。とかいうフレーズを、自分の頭の中で反芻して

心を勇ましくしている。 ような気もする。


理屈じゃない。というのは、理性を超えた発想や行動のイメージがありまして


私にとって独立するというのは理屈じゃないんです。

私にとっての必然の人間行動なんです。


っていう、なんだかそれくらい勇ましく、強く表現したくなりました。 


でも、これを稼業に直結させるのは危険なんでしょうね。

ビジネスは理性のぶつかり合いだと思います。

利益(効用の対価=お金)を多く得ている人。というのは、

本能的な人間行動を極めて理性的に観察している人。のような気がするのです。


#実は上の4行は、芸津から怒られそうなので書き足しました。

 まぁ、私も公私は切り分けるんで大丈夫だよ。

Webデザインのお仕事。   について語るのを諦めた。わけではないのですが、

今日ふと感じたことを綴る。という事をしてみようかと。


「カラーバス」というものを聞いたことがありますでしょうか。

ただいま、考具 を読んでおります。(アフィリエイトはしていませんので、どうぞ引かずにリンクしてくださいね。)その中で知りました。


朝一番、今日のラッキカラーを決めます。

「今日は赤」。

その後、あなたはその日一日やたらと赤いものに目が行くようになっている。


これがカラーバス効果(=色を浴びる)という、ものらしい。


人は意識によって、視点(やほかの感覚)から得る情報を無意識に取捨選択しているものだ。

という効果を、「発想の転換」に活かしてみましょう。という一例での紹介でした。



帰りの電車ホームで、ふとそのことを思い出し、理由なく「青い色」を意識しようと思いました。

青って意外と少ないんですね。広告では。電子掲示板では、そういえば青色発光ダイオードって、実用レベルではないのだな。とか思ったりして。


あることはあります。企業ブランドカラーとしてブルー系を使っているものも当然ながらあります。


電車のなかの中刷り広告を、目を細め俯瞰視してみました。

圧倒的に広告は「赤い」。部分的にも、大々的にも。


広告=訴求=赤。 という構図なのでしょうか?


真っ赤っか。というわけではないですが、あちらこちらで赤がアピールしているんですね。

そこを突いて、白地のインパクトを狙う広告もあったり。


いままで、私は人の目に触れるものを作ってきたわけですが、

私は人間という動物で、その生き物である私がこんな感じで世界の色を意識したことなんか、あんまりなかったのだと実感したのです。


私は北海道の自然児でしたので、私の幼い記憶は「緑色」が多いのです。


この視点。この考え方。 確かに考える道具、「考具」なのかもしれませんね。

これを直球でビジネスに活かす。...となると面白くないんです。本音としまして。


そうではなくて、違う考え方をしてみる。という余裕がある時の自分がうれしかった。のかな。

私の「うれしい」は、そこにあるのかもしれません。


是非「うれしい」を仕事にしたいものです。


(独立まであと136日)


ある時期の私がなぜ「Webをデザインし、価値を高めることにうんざり」したのか。の理由。


当時勤めていた職場での、メインクライアントは某TVキー局で、私のデザインのほとんどはテレビドラマのホームページをデザインすることと、更新していくことでした。


当時(24歳くらい)情熱だけを買われて転がり込んだ(転がり込ませていただいた)男にとっての第一の幸運は、そこで「デザインの基礎の基礎」を学ばせていただいたこと。


フォントを揃える。余白の意味。色のもつ力。読ませる配置。見せる配置...


本当に、一つ一つ「美しいという最適解」を教えていただいた。

私は、毎晩最寄り駅からの帰り道。しょんぼりしょんぼりしておりました。


第二の幸運は、そんな何もわからない以前に何も知らないような男に、どんどん実戦デビューの機会を与えられたこと。


「うち(の会社)には、アーティストはいらないから。”できません”という答えはないから。」

イケ面の社長は見習い初日の私にそう告げました。


なので、「できません」とは言えずに、とあるアナウンサーの企画ページを制作したのが私のデビュー作。


生まれて初めて、細いタッチで女性のイラストを描いた。
パステルカラーというものを使った。



そうやって、Webデザインを続けているうちに、私にとってデザインするということは

「クライアントの想像しているものを具現化する」ことだということに気がついた。

(それが正しいのかどうかはさておき。社会はそうやってできている。というこを知りました。)


クライアントに誉められたい。喜ばれたい。 反面、失望されたくない、見捨てられたくない。


私の成果物は、対クライアントで完結していました。



私にとっては、それは一つの敗北でしたが、一方で、クライアントにとってはどんな要求にも答える(答えようとする)器用さというか泥臭さというのを、私の「才能(メリット)」として理解してくださる方が出来たように思います。


ようやく、私は「守」の段階を認識できるようになっていました。


(つづきます)



【守・破・離】

 ・守は、教えを守りながらできるようになること
 ・破は、教えを守りながらも、教えを応用して、オリジナリティを出すこと
 ・離は、教えから離れ、自在にできるようになること



Webのデザインについて語る。ということを、インターネットで発信するのは初めてです。


社会に出てWeb業に携わってから4年。(4年しか経っていないんだ...)

まだまだ公の場で語るのはいかがなものか。

とはいえ、大観衆の前で語るわけじゃないので、いいでしょう。


ブログを書いていたり読んでいたりしますと、つくづくWebデザインというものはあまり必要ないと感じるときがあります。それは、私の行為に「見る」という要素がなくて「読んで」いるから。


言い訳(1):私は元Webデザイナーでありながら、当ブログのデザインをカスタムしない訳は、上述の通りです。


現時点では圧倒的に「読む」ホームページが主流ですから。(googleルネッサンスにより?)

2年ほど前の私はその流れ(のはじまり)が楽しかった。見た目ばっかりのWebの価値付けにうんざりしていたのですね。


何故、Webデザイナーであった私は、Webをデザインし、価値を高めることにうんざりしたのでしょうか。


(つづきます)

継続させるがために、強引に書く。という試み。

3日坊主慣れした自分には丁度のよいショック療法なのかもしれません。


あぁ。今日も疲れました...


疲れてくると必ず出てくるもう一人の自分。

「お前は独立のメンバーに見合っているとおもっているのかい?」


ぐぅ。痛いところを突く。

私は、私が存分に発揮できていないときが一番つらいのだな。と思います。


「あれ、この人、俺(私)じゃん」と思えた方。 


乗り越えましょうね。