下西目神社
下西目のガロー
民家の軒先の岩山(磐座)
木カマスのガロー
種子島最南端、門倉岬近くの民宿に投宿した後、周辺を散歩する。歩いてすぐのところにある下西目神社は集落の氏神だ。明治時代に西之表上西にある伊勢神社から勧請したという。下西目のガローはこの神社の境内にある。来歴はガローの方が古いことはいうまでもない。地元の旧家、徳永家が代々祀ってきたガローで、取り木はタブの木だったというが枯死したという。その代わりに立石が祀ってある。この立石は上立石にある徳永家の旧地、徳丸ヶ野から持ってきたとの由。ここには昭和14年に埋め戻された貝塚があって、縄文時代に遡る複合遺跡だったようだ。この遺跡のことは種子島の民俗調査で知られる下野敏見氏の「徳丸ヶ野遺跡の史実と伝承」に詳しいので文末に「南種子町の民俗」のURLを参考に掲載しておく。「南種子町の民具」とともに非常に興味深い資料だ。
下西目のガロー
ガローの中の立石
屋久島を望む
ここまでに訪ねたガローは15ヶ所だ。さすがに見慣れてきたなと思いながら下西目神社を出ると、眼前にうっすらと屋久島の島影が見えた。離島にいるという感を強くする。さて、宿の食事は19時にお願いしたのでまだ少し時間がある。もう少し散歩しようと歩いていると老婦人に出会った。挨拶を交わす。いつもは朝に散歩しているがきょうは午前中の雨で今になったとの由。ガロー山を見に回っていると話したところ「あたしはガローじゃないと思ってるんだけど、まわりの人たちは皆ガローだっていうんだよね。その岩山がうちにあるよ」との由。よければ見ていってと言うのでお言葉に甘えてついていく。ご自宅の庭先の樹木のまばらな森の中にはたしかに岩山があった。「この石の山ね、孫たちが帰ってくるとみんなここで岩登りしてるの。遊び場よ。昔ここは採石場でマイトで爆破したらこうなったらしいの。何人かが石を採りにきてたんだけど、そのうち来なくなって、そのまんまになってる」。数多くの岩石祭祀の場所を歩いてきたがこれは紛うことなき磐座である。ダイナマイトを発破させた跡ではない。明らかになんらかの意図を持って造られたということがわかるのである。しかし、種子島に来て磐座に遭遇するとは思いもよらなかった。
この磐座は標高にしておよそ80〜90mほどの地点にあるが、家屋など遮るものがなければここから太平洋を一望できる。ここで仮説として提示しておきたいのは、一帯が弥生時代の高地性集落(注*1)であった可能性である。海上交通の見張り、防御といった主要機能を考えると立地は適しているように思える。一方、冒頭に紹介した徳丸ヶ野遺跡も標高が90mとほぼ同程度であり、大小の立石による祭祀遺跡が確認されている。下西目のガローの立石はここから持ってきたのである。また、ところ変わって安納芋で知られる西之表市安納の天女ヶ倉(標高238m)の山頂にも磐座があるが、これも瀬戸内海の島々にある高地性集落の祭祀遺跡に酷似している。岩の結構は異なるが、なんらかの岩石祭祀がこれらの場所で行われていたことは確かだろう。種子島の民俗は中世までは遡ることができるが、それ以前になると文献も少なく、発掘に頼るしかない。だが、新たに道路を建設するなどの大きな工事がなければそれも叶わない。この島の古層にはまだまだ様々な文化が眠っている筈である。
天女ヶ倉山頂の磐座(出典*1)
もうひとつ、木カマスのガローを紹介しておく。三日目は中種子町に泊まっていたが、最終日の朝にやはりここには行っておかなければと南種子町に戻ったのだ。前稿でとりあげた中ん崎のガローに同じく西之にある。南種子町郷土誌には水神として以下のように紹介されている。
この水神は、鹿鳴川の中流、本村の宇都の奥「キガマス」にある。鹿鳴川が野大野に源を発し、田代を流れ、城角の台地を削り、平野部に流入する地点であり、川岸の森の中である。大きな椎の木の根元に自然石を立ててありその前に花びんがおかれて、祭りがおこなわれるようになっている。この水神の位置は、鹿鳴川の一番イゼ(いせき・井堰)と二番イゼの中間地点である。鹿鳴川の水は、田代、本村、下中の田、約百町歩をうるおすことになる。特に二番イゼによって送られる水は下中の八幡神社の神田、御崎神社の祭り田に引かれるものであった。そのような意味でもかつての水田耕作には重要なものであった。ここでノリトがあげられ、水の豊かさ、稲の豊作を祈って潮祭りが終わるのである。この水が、真所、本村の水田耕作に大きな影響をあたえたのである。(出典*2)
潮祭りは南種子町の各集落で行われている稲作に深く関わる予祝祭事で、前稿に記したように西之地区のものがよく知られている。海や潮からの恵みと大地への感謝を目的とするが、言い換えれば南方からもたらされた米とこれを育む「水」を祀っているのである。そしてこの祭事に絡むのがガロー山だ。木カマスのガローは当地の潮祭りにおいて最初に祀りが行われ、次に前稿の中ん崎のガローで行われるという。ガローが水神的性格を帯びていることがわかる。その始原は稲作をはじめた弥生時代以降のことだろう。
県道の西之表南種子線を南下して、鹿鳴川を渡ってすぐのところを右に入っていく。川沿いにわずかな耕作地があり、朝から農業に勤しむ土地の人の姿がちらほら見える。あらかじめ地図上で当たりをつけていたものの、実際に当地に赴くと皆目見当がつかない。付近の家の前を竹箒で掃いているおじいさんに訊いてみる。なんとなくわかっているようなのだが、場所の説明はご高齢ゆえかさっぱり要領を得ない。レレレのおじさんである。車に乗せるから案内してもらえないかと頼んだが、掃除中とのことで断られてしまった。仕方なく歩きながら付近の森を覗いていると、農作業中のご夫婦がいた。尋ねてみると「ガローと言っても大したものではないよ。連れていくから車でついてきて」と、ご主人は軽トラックに乗り込んだ。
そこはたしかに川岸の森の中だった。ガローの中にはまだ新しい標識が立っていたが、これではわからない。地元の人間以外は訪ねてこないということなのだろう。取り木は椎とのことだが、右側の二つの老木のスダジイだろう。夫婦のように並び立ち、枝を伸ばしながらくねる様子がなんともいえない感興を起こさせる。その前にあるとされた自然石も花瓶もおよそ祈りのしつらえと思われるものが何もないのがかえって潔くていい。聖地、聖所というものは本来こうでなくてはならない。神は人々の祈りによって特定の場所に降臨し、決して常住はしないことはこのブログでも何度も触れてきた。僕は祈りのしつらえを残すことは神の常住を願う表れだと考えている。それは後に仏教の影響から社殿を設けることにつながっていく。アニミズムの立場からは”なにもない”この場はまさしく理想の聖地なのだ。
案内いただいたご主人は、三月の田植え(種子島は二期作を可能とするため早い)の前に集落の人々が集まり、掃除をして祈っていると話した。その言葉に特段の畏れは感じなかった。だが数年前にこの川が氾濫し、後に護岸工事をすることになったが神様がいるのでこの場所だけはそれをしなかったとも。確認するとたしかにこのガローの周囲だけ護岸がない。信仰というものはこうして残っていくのだという思いを強くした次第だ。当地では他に浅香野のガローを探していたのだが、ここの字ではないとの由。彼は「認知症のお婆さんが昔からここに住んでいるので聞いてこようか、すぐに戻ってくるから」と車に乗って数分後に戻ってきたが、話しを聞くとそれは中ん崎のガローのことだった。残るガローもあれば、消えるガローもある。いったいその差はなんなのだろうか。
さて、まだ書きたいことがたくさんあるのだが、次稿で種子島探訪は最終となる。海の神、森の神、そして最後に中種子町のガローを見て、一連の種子島の旅、そしてガロー山の総括をしてみたい。
(2025年5月30日、6月1日)
注
*1 Wikipedia「高地性集落」
出典
*1 種子島観光協会 天女ヶ倉
*2 南種子町郷土誌編纂委員会「南種子町郷土誌」昭和62年
参考
*3 南種子町教育委員会・南種子町文化財保護審議会「南種子町の神社・仏閣」平成30年
*4 下野敏見「種子島の民俗I」法政大学出版局 1982年
*5 下野敏見「種子島の民俗Ⅱ」法政大学出版局 1982年
*6 谷川健一編「森の神の民俗誌」日本民俗資料集成第21巻 三一書房 1995年
*7 岡谷公二「神の森 森の神」東京書籍 昭和62年