中ん崎のガロー
西村織部丞の屋敷跡
真所八幡を後にして中ん崎のガローへ向かう。目指すは2kmほど南に下ったところにある本村公民館だ。隣接してガローがあるという。車を走らせる。途中で原付のバイクが走っていたので追い越す。左折して水田を横切り、公民館の庭先に車を停めた。早速ガローはどこだと探していると、ほどなく追い越したバイクがやってきた。乗り手はおばあさんである。一瞬なにかやらかしてしまったのかと思ったが、どうも近所に住んでいるらしい。挨拶してガローを見に来たと伝える。なぜかガローの近くまで来るとかなりの頻度で案内人が現れる。キリストの使徒ならぬガローの使徒ではないかと思うくらいだ。このおばあさん、齢八十とのことだがやたらに元気でこちらが聞いてもいないことをよく喋る。いきなり「そこの墓は見たか」と公民館裏手の墓所を指し、こんなことを話しはじめた。
中ん崎のガロー
向かいの山にもここと対で神さんがいて、祀ってあった。山の中腹、ビロウの木のあるあたりに鳥居があってその前に管理する人が住んでいた。ある時その神を移すと言ってこっちのガローの裏に墓を移したらその人は首を吊って死んでしまった。その息子が田を継いだが、畔でギターを弾きながら農作業をする変わり者だった。これもある時首を吊って死んでしまった。たぶんノイローゼだったのだろう。その後継ぐ人がいなかったので、亡くなった自分の夫が地籍を継いだが、祟りがあるとよくないので米は作らなかった。
どうやら目の前の水田のどこかに癖地があるようだ。以下、ニュアンスを汲んでいただくためにフィールドノーツとして録音、文字起こししたものをそのまま転載し、解説と画像を後に付す。長くなるがご容赦願いたい。
(1)あのほら、鳥居があるでしょう。こっちのな、角があるでしょう。角のあの真四角な角の下に田があるでしょう。あの田なのよ。あの鳥居のある、あの神社の前の。こっちの三角のはな、もうここは道がまたあるから。 あの道の三角のあそこのとこの田が神様に付いた田なの。あの田の水をばこう用水路がこう通っちゃ。私とあの人と二人しか(米を)とらないのよ、もらわないのよ。それでも水は多い時多いけど、ないときはもう作れないのよ。 あの人が(亡くなって)、とうとう後家さんになってやめちぇ。(田を)荒らしたのが今年開いちぇ。うん、若い人が六五歳になるみたいな人が作ったが、私たち親子は他人には絶対言わんからな。あんたはもう遠い人だから。(通りすがりの人だから話しても問題はない)もう管理しないで田を作らないでいたんだよ。主人が死んだから。それでまた町の人が今年作ったのよ。
(2)うん。やっぱりこれ(祟り)はあるよね。私がな、嫁来た時、そこの山にたけのこ狩りに行ったのよ。たけのこをな。そしたらあの上の山にたけのこ狩りでずっと上に登っていくと鳥居があっちぇ、もうたまがっちぇ(たまげて)、おじいちゃん帰ってきたって舅さんに言ったのよ。(声を荒げて)なんであんとこ山行ったかと。その怒られ方。うん。あそこに女の人が行くんじゃなかと、なんで行ったかちゅうて怒りよった。 ぞーっとしたもの。鳥居を見たいば。 知らぬが仏っちゅうもんだからな。知らなかったからよかった、なんもなかったけど。私ももう長男が65になったからな。65年前よ。鳥居ももうなくなったやろ。なんちゅう人かいな。その人がもう管理もせず。それでちょいちょい見たい言う人が来るのよ。だけどこの山には行けないから、全然。それでなんか石かなんか祀っとったかな。鳥居はあったよ。65年前は。
(3)あすこのな、ここの神様の祀り、ここの墓のそばに畑があるのよ。ここやな。あんたはまだ見てないの、ここの墓のそばは。そんでね、ここは中ん崎のガロー山って言って、そこの上に大和のつながりのお墓があるのよ。ほら、そこにあるでしょ。(墓を)持って行ったってここ(に)。 で、持って行ったから何の関係もなかって言うちゃ、それで私も負担(なにか手伝おうと)、私が(草木を)払ようかって言うちゃ、ここのおじさん、ちょいちょいここの管理のおじさんを連れて行くところ、お客さんを。その時、払いよって祟らんかなぁって言って。あーあ、全然かまわん、払うていいよ、伐採していいよって言って。
(4)ガロー山って言ってな。おいで。あの、ここも真っ直ぐにここに、 この基礎が繋がってるでしょ。 (ガローの取り木の幹から根の部分を指す) これとつながったのよ。そしてね、私が嫁来た時は、これはな(腰のあたりを指す)こんくらいの木なってよ。そしたらこんなにしまーちぇ、こう巻き込んで、それでここにね。ここにちっと見えてるだけ。これ石があるのよ。あのね、ここに石が見えてるからな。 ほらほら、石だよ。こんくらいの石が立ててあったのよ。ほいで、きりりとこの木が締まってしまったの。(木は)こんな大きくなったのよ。ここで毎年、私たちの部落の人が、あの祭りの正月の元旦にお寺の師匠さんが来て、ここに座って経あげて祀るのよ、毎年。西之校区、上中校区の公民館長、各部落の公民館長さんが来んなら、お寺の師匠さんじゃなくて、ほいどん(民間巫者)ちゅう、ほいしちょほいしちょする(不明)やから、ゆんずりあいでもってな。だけどあの、校区の公民館長さんが九月頃にまたここに祀りに来るん。毎年。欠かさず。私たちの部落の人がここに来ちぇ、みんな座っちぇお経を三十分あげるから。お師匠さんがな、ここに茣蓙敷いて(経を)あげるから。それでこの木の根がね、私の家まじぇ通ってるのよ。
(5)私たち、ここの山(ガロー山)あの(氏子)は四軒あったのよ。そしたら空き家になっちぇ。それで空き家の お父さんが亡くなって、空き家になって、その息子さんも死んで、嫁さんが一人。ここも(森の中に)まだ家がある。住んでるんだよ。一番向こうの鉄筋のが嫁さんが一人後家さんで、ここ真ん中はお父さんも長男も死んじぇ、次男坊がお母さんを看取っちぇ、今年が三回忌なのよ。お母さん看取っちぇひとりで住んでるのよ。私も後家になった。あたしも三回忌は通ったのよ。お父さんが、主人がな。三回忌で。ここしかない部落になるな。本(もと)部落と言えば字のごとくは本村(ほんむら)ちゃ、本部落って呼んだり。あのもとは学校があったって話もあるな。うん。 だけど、鍛冶屋があったとかなんとかいうてな。
(6)それでここもほら、ここを見てごらん。あれは槍の石碑をな、あの弓か。弓よな、弓よ。弓のあの石碑で、それであの字が(かすれて)消えよったからここの公民館長さんが、今年きれいとまた字をきれいと書いたのよ。これ消えて。 このね、ここから、槍、槍ちゃうか弓っていうのかな。うん。ここからね、あの先の田んぼの中にまたこんなのが立っているのよ。そしてこっから打ったのがあそこまで飛んだっちよ。遠いんだよ。まあ、本当の話かな。 知らないけどいま自動車がカーブ曲がってるのがあったでしょ?その右手の田んぼに立ててるの。 あそこまで飛んだってのそういう意味で立てたんだって。
(7)そして、あのね。千人隈(せんにんぐま)っていうとこはどこかいな、千人ぐまってな。前の浜へ。あの。戦争の時かな。あの千人の遺体が上がっちぇ、前の浜に、そこの浜に埋めてあるんだって。これ千人ぐまっちゅう名前がついちぇ、そしてちょうどな、こんくらいの石がここ(案内板)に、ここに載っているよ。千人ぐまって。うん、そうじゃないかな。これかこれか。 あんた。(案内板を指して)これこれこれこれ、これをね、この校区の班長さんたちは、ほいどんが来て祭りをするんよ。ほいで、こんな石が前の浜に立てちぇ、あっこまでわざわざ毎年行って、ここ祀っちぇから。 あの、あすこに行って祀っちぇ。千人ぐまって話を聞いてるよ。やっぱりあのなんかと何回、千人の人間を埋めたちぇじゃないかなと思うよね。詳しいこと知らないけど。うん。
(8)西村よ、西村さん、ここ。今、名前があそこの墓の名前。西之表に西村さんって本家があるのよ。鍛冶屋さんじゃった。(写真を撮らせてほしいと言うと)いいよ、撮りよ、みんな撮って。あたしは誰かな?私に何かしとかなと思うとったの。ほんで、あんたたち、ちょいちょいこんなん来るよ。東京からとか。あとはこの趣味の人が来る。よう来る。うん、若い人がそっちや。時村家のなおじさんがあの。 やっぱりあの人は詳しかから連れてきて説明しようよ。 (西村家のご子孫が存命かと尋ねると)ああ。そう、七十、八十、九十にはなっちゅうかもなぁ。元気ですよ。うん。(あんたは)東京? 東京からとかよう来る。これに詳しい、こうある人の趣味の(輩が)見たいと。私も何度かよ、話をするがよ。じゃ。 写真を撮ったり、見物して。
以下、パラグラフの付番毎に解説を施す。地図を掲載するので場所を確認しながら読んでいただければ幸いである。
↑の白く囲った部分を↓で拡大した。
(1)中ん崎のガローの向かいの山の中腹にはかつて神社があった。その神が憑いた田の話をしている。文中の鳥居はその神社ではなく、この田の前にある本村神社のことだ。江戸時代には本因寺という寺で後述の西村家の菩提寺であった。県道を挟んでこの前にある三角形の田が癖地である。
(2)たけのこ狩りに行ったのは、中ん里のガローの向いの西村織部丞(注*1)の屋敷跡がある山。屋敷跡は本村集落を見下す崖斜面の平坦な場所にあり、不動明王碑が立つという。この屋敷一帯の森を地元では荒神山(不動山)と呼び恐れており、この森の木や竹を伐採すると祟るといった話が今も伝わる。(現地案内板より)荒神といえば森の神であり、西石見など山陰のそれらが知られるが、おそらくこの山自体もガローだったのだろう。山の近くで畑の草刈りをしていた農家の男性に聞くと、恐がって誰も入らないので荒れ放題になっているとのことだった。たしかに足を踏み入れるどころではなく、流石に藪漕ぎはしなかった。
荒神山。山の中央あたりに鳥居があったという。
(3)ガローと公民館の間の奥まったところにある西村家の墓所について話している。地頭を務めた家柄であれば、興りは相当に古い筈だ。大和とつながりがあるというのは薩摩藩や領主であった種子島氏との関係を指すのだろうか。おそらく向いの山の中腹から平地に墓を移したのだろう。彼女は近所に住むガローの氏子であり、草木を刈り払おうと思ったらしいが、祟りがあるといけないので公民館長に相談したようだ。
(4)このガローの取り木(依代)はアコウである。アコウは他の木や岩などに気根を伸ばし、絡みつくように成長する性質を持ち、絞め殺しの木とも呼ばれている。彼女が嫁いできた六十五年前から大きく成長したのだろう。ここではガローの祭祀について語っている。ほしゃどんと呼ばれる民間巫者と寺僧が祀っているようだが、その役割は交互に譲り合っているようだ。ほしゃどんは奉仕者、或いは法者から転じたもので修験者的性格を持つ。「ほいしちょ、ほいしちょ」と唱えるのかどうかはわからないが、上げるお経は法華経である。種子島家十一代時氏は文明の頃(室町時代中期)に律宗から改宗し、法華宗に帰依したといい、島内ほとんどの寺は現在も法華宗系の寺院である。
(5)十年以内にこのガローの祀りは途絶えるのではないか。高齢化には抗えない。四軒ある氏子も三軒の主がこの数年で他界しており、残るは嫁いできた老婦とその子供である。さらに子供といってもすでに六十代半ばであり、祭祀を継ぐかどうか。まさに風前の灯といってよい。鍛冶屋だったというのは気に掛かる。鉄砲伝来後に改良を重ねたのは当地である。砂鉄が採れたため、古来より製鉄業や刀鍛冶が盛んだったからだ。彼らがいなければ銃身を長くして発砲の威力を増すことなど叶わなかっただろう。
中ん崎のガローから森の北側を望む。奥に数軒家がある。
(6)遠矢碑について説明している。西村織部丞の子孫にあたる西村時員は弓の名手として知られており、宝永三年(1706)の正月吉日に遠矢射碑の場所(地図参照)から本村公民館脇にある遠矢落碑の場所まで矢を放った。その距離は四町三段三間一尺五寸(約471m)あったと碑文にあり、自身の強弓を人々に示すために碑を建てたらしい。飛距離を検分した武士の名前と花押まで記されている。ゴルフのドライバーコンテストのようなことをやっていたのだろうか。
遠矢落碑。矢が落ちた場所。掠れた刻字の跡を白い塗料でなぞってある。
(7)本村公民館の裏手一帯は浜山という防潮林でこれが当地の稲作を可能としている。千人隈とは浜山の海岸側にある石碑のことだ。昔、前之浜海岸に多くの難破した何百人もの死体が打ち上がり、その死体を丁重に葬った場所らしい。前之浜海岸には、国外者や南蛮人がやってくることが多かったようで、ここで殺して埋めたところだったとの言い伝えもあるとのことだ。ここでも祭祀を行っているようだ。
千人隈の石碑(出典*1)
(8)やっと西村という名前が出てくる。本家は西之表で鍛冶屋だというが、どうなのだろうか。こちら(西之の本村)が本家ではないか。ガロー山を調査に来る物好きな御仁もいるようだ。彼女がバイクで追いかけてきていきなり話しはじめたのは、こうした旅の人を世話してあげたいという志だったのだろう。種子島の人々は皆さん親切で人懐っこい。彼女の好意をありがたく受け取って本稿を締めくくることにする。
中ん崎のガローの全景
さて、僕はこのあと民宿に投宿して宿近くの神社とガローを訪ねたのだが、界隈を散歩していてとんでもないものに出くわすことになる。長くなったのでこの続きは次稿で。
(2025年5月30日)
注)
*1 西村織部丞時貴 鉄砲伝来の際の西之村の地頭。ポルトガル船の乗員であった中国人と筆談を行ったとされる。朝日新聞の「天声人語」を命名したジャーナリスト、西村天囚の祖先にあたる。
出典)
*1 浜山
参考)
司馬遼太郎「街道をゆく8 熊野・古座街道、種子島みち ほか」朝日新聞出版 2011年