郡原神社
婆じょうヶ峯のガロー
里のガロー
真所八幡神社と森山
種子島に来て三日目を迎えた。昨夕までの雨は嘘のようだ。今日は下中地区のフィールドワークからはじめよう。聖地は名の知れた社寺よりも、土地の人にもよく知られていない所を訪ねるのがおもしろい。そうした場所に赴くと僕の探求モードが起動し、毛髪がビビビと逆立ったりするのだが、今回のガローを巡る旅は探しても見つからないことが多く、それが一層探究心を掻き立てる。これまで見てきたように、ひと口にガローといってもその立地や祀り方はさまざまであり、できるだけ多くのガローを見ておきたいのである。
最初の目的地は「婆じょうヶ峯のガロー」だ。手元のガイドブックには「郡原神社から山手に登った先の峰先にあるガロー。下中でも一番祟るガローで、以前は石が3つあり、石敷きもあったらしい。現在は、天照大明神宮と刻まれた大きな自然石とその横に子供墓と呼ばれる小さな自然石がある」と記されている。一番祟る、と言われて訪ねない理由はない。郡原神社の近くにあるというので近くの公民館の前に車を停めさせてもらい、徒歩で向かった。途中リヤカーを押す年配の男性に会う。挨拶を交わして神社の場所を尋ねるとすぐ先とのこと。
石段を上りきると苔生した広場があり、奥に拝殿が佇んでいた。石灯籠あるいは狛犬の代わりにソテツが植えてあり、南島らしさを感じる。祭神は八王子大国闇戸神。八王子は牛頭天王(スサノヲ)の八人の子、大国はオオクニヌシ、闇戸はクラトであり、谷の意がある。種子島氏が鎌倉時代に入島した折に随伴した家臣の久木原氏が玉石を神体に当地の氏神として勧請したとされる。たいへん美しい境内で絵でも描いてみたいと思わせる光景だ。
問題はガローなのだが境内周辺にはそれらしき森は見当たらない。いったん下に降り、さっきすれ違ったおじさんを探して聞いてみると案内してくれるという。鳥居の左側に道らしきものがあり、谷あいを上っていく。闇戸という神名に相応しく、道は樹々に遮られて暗い。藪漕ぎしながら進んでいくが行けども行けどもそれらしき場所は見つからない。祀る者などもう誰もいないのだろう。
ここから先にはたぶんないだろうとの言にしたがい、フェニックスの畑の手前あたりで諦めることにした。おじさんは道すがら申し訳ないといいながら、家の納屋に向い、アルミホイルに包んだなにかを持ってきた。安納芋を焼き芋にして冷凍したものだという。お詫びのつもりだったのだろう。恐縮して頂戴し、山を下りると水田の中に森山が見えた。この森もかつてはガローだったと思われる。
続いて、里の集落に向かう。一帯は住宅地だ。花峰小学校の前にある駐車場に車を停め、ガローの探索をはじめる。水田に囲まれた宅地の周りに四ヶ所ほど点在するようなのだが、生垣になっているような場所ばかりでどこがガローなのかまったく判別ができない。家の軒先にいた奥さんに尋ねてみたがガローと言ってもさっぱり要領を得ず、最近越してきたばかりとの由。
辛うじて手掛かりを得ていたのは消防詰所の裏手の山という情報だった。たしかに消防詰所があったので建物の右手から回り込む。森は森だが覗き込むと建設資材などの捨て場になっていて足の踏み場もない。なんの収穫もないのは癪なので意を決して中に入ってみた。奥へ行くと木の階段のついた小道が上に続いている。あるとすればここしかない。
森の中の迷路のような細道をそのまま進む。行き止まりになったところが僅かに開けていてビロウの幹がまっすぐ伸びていた。これはガローの取り木(依代)だろう。祀りの痕跡を探すと徳利と湯呑み茶碗が見つかった。ガローであることを確信する。すでに祀りは絶えているようだ。周辺の宅地には真新しい家が建っており、いま正に建築中の家もあった。代替わりしたり、新たに住まう人も多いのだろう。こうしてガローは人々の生活の中から姿を消していく。それは畏れを忘れるということにほかならない。このガローを離れる時、忘れ去られたガローの神のしのび泣く声が、背後から微かに聞こえたような気がした。
下中地区にはどうしても行っておきたい場所があった。真所八幡神社とその向かいにある森山である。里の集落から1kmほど西に下ると、道沿いの右側に鳥居が立っている。ここから望む風景は種子島を代表するものの一つだろう。南種子町郷土誌から当社に関する記述を写しておく。
下中八幡神社 下中 真所
祭神は、応神天皇と天照大神。神社の由緒について、種子島初代領主信基が鶴岡八幡宮と武蔵国児玉郡二宮村に鎮座する天照大神宮を勧請したといわれ、その後三代信真が現在地に建立し、この地を真所と改め、真所八幡宮といったという。四月初めお田植祭りを行うが、宝満神社が赤米を植えるのに対しここでは白米を植える。お田植祭りは古式で行われる。神事は神社で行い、神田でお苗授け「ガマオイジョウ」のお田植舞があり、お田植がにぎやかに行われこの後、直会がありお田植祭りを終わる。神社の前方の水田の中に、お椀を伏せた様な丸い山があるがこれが森山である。この森山は、神社の本殿、鳥居と一直線上に並び、神社とのかかわりを示している。宝物として、應永三十三年丙午(1426)三月、長谷部徳永銘の鰐口がある。この鰐口は県の指定文化財。西之の中西目の氏神は明治になってここから分霊したものである。(出典*1)
前稿で取り上げた宝満神社から4kmの地にあり、直接の関係はないものの、森山を祀る点では一致している。種子島の社寺のほとんどは中世に創建されている。これは種子島氏およびこれに関係する士族によるもので、伝統的な神祀りの場にヤマトの神仏を上書きしたものと見た方がよいだろう。そうした意味では森山こそが信仰の原点なのである。境内の趣はやはり南方のものだ。ソテツをはじめとする植生もあってか社殿の佇まいも遠く琉球の神アシャギとつながっている感がある。そうさせるのはやはり風土だろう。参拝した後、車を路駐したまま森山へ赴く。
この森山は宝満神社の御田の森よりも大きく繁っていた。水田に映る森が実に美しい。回り込むと三角形の神田があって、その脇の畦道が森の中に続いている。中に入ってみた。御田の森に同じく祭壇が設えてあるかと思ったが、そこは潔いくらいなにもない森の中だった。
なんの考証もせずにこんなことを書くのは気が引けるが、なにもないこの森山の方がより原型に近いように思える。たぶん古代からずっとこのままなのではないか。
さて、種子島に高校教員として赴任し、各地の民俗調査を行った下野敏見氏は宝満神社について書いた文の中で興味深い論考を展開している。真所八幡神社にも共通すると思われるので引用しておこう。
『宝満宮縁起』(文化四年)、『宝満宮紀』(文化三年)、『社人文書』(明治・大正)による、右の伝説のほかに、(1)イザナギノ尊、イザナミノ尊が天下りしたまい、五穀の種子を蒔きたもうたのは種子島である。(2)タマヨリヒメ命はウガヤフキアエズ尊とともに種子島に居住し、浦田で農耕を再興された。(3)タマヨリヒメ命は、始めて茎永に来られた時、加寿和(かずわ)の峯に登って村中を眺め、馬に乗って村を廻られた。(4)宝満神社の神稲の赤米が絶えた時は、浦田神社の白米を持って来て植えると、白は赤になって稔る。(5)茎永の浜辺にある海亀状の石は、昔、宝満様が龍宮から乗ってこられた亀が石化したものである。以上のような記事が見られ、(1)(2)(4)は農耕の起源と稲作説話であり、(3)は馬の使用を伴う天孫降臨型(垂直神)説話であり、(5)は海上渡来型(水平神)説話である。浦田は種子島北端にあって、南端の茎永とは対照をなしている。(4)の場合、北:ウガヤフキアエズ尊-男神-白米、南:タマヨリヒメ命-女神-赤米という対比が見られ、北方系文化の力が南方系文化にまさり、それを被覆していく姿を示すが、「白が赤に」変ずる点は、南方系基層文化の底力の表現であろう。(出典*2)
琉球と大和の文化が折衷する境界は、民謡の音階(長調と短調)、食文化(沖縄そばとラーメン)などにおいて沖永良部島と考えていたが、ここ種子島でも南北の文化のありようは古代において異なっていたと思われる。どちらが先かといえば、南方文化であることは間違いないだろう。種子島の南東沿岸に漂着した祖先が、米と森への畏怖を携えてやってきたとすれば、森山は古代種子島の記憶を今に残しているのである。
真所八幡神社を後にして、西之地区に向かう。次稿では西之の中ん崎のガローが祟った実話に加えて、民家の軒先にある巨石群など、今回の旅でもっともおもしろかったエピソードを紹介したい。ご期待を乞う。
※各ガローや神社の位置は、参考*1の冊子(PDF)で確認できるのでぜひ参照してほしい。地区別に分かれており、写真と簡単な解説も添えられていて有用な資料だ。
(2025年5月30日、31日)
出典
*1 「南種子町郷土誌」南種子町 昭和62年
*2 下野敏見「種子島の民俗Ⅱ」法政大学出版局 1982年
参考
*1 南種子町教育委員会・南種子町文化財保護審議会「南種子町の神社・仏閣」平成30年
*2 谷川健一編「森の神の民俗誌」日本民俗資料集成第21巻 三一書房 1995年
*3 岡谷公二「神の森 森の神」東京書籍 昭和62年