御上神社:滋賀県野洲市三上838
御上神社奥宮(三上山山頂):滋賀県野洲市
打ち出でて 三上の山を ながむれば 雪こそなけれ 富士のあけぼの
出典は不詳だが、紫式部が詠んだとされる歌である。後に近江富士と称される三上山は古くから都人に知られた山だったようだ。山容はいわゆる神奈備である。山麓には御上神社という古社があり、元々はこの山を神体としていたという。初めて訪れた時にそのことを知ったのだがあいにく時間がなく、山頂の奥宮と磐座は訪ねることができなかった。奥宮や奥之院は概して山頂や山腹にある。これを見ずして社寺の本質はわからない。ずいぶん悔しい思いをしたのだが、幸いにも数年後に再度訪れることが叶った。
由緒は御上神社のホームページから引いておく。
御祭神 天之御影命 (あめのみかげのみこと)
当社の起源は、第7代孝霊天皇6年6月18日に御祭神天之御影命が三上山に御降臨遊ばされ、それから約1,000年の間、御上祝(神主)等は三上山を清浄な神霊の鎮まる厳の磐境と斎定めて祀っており、『古事記』開化天皇の段に「近つ淡海の御上祝がもちいつく天之御影神」と記されている。奈良朝初期元正天皇の養老2年3月15日(718年)に藤原不比等が勅命を拝し、榧木原と称された現在の鎮座地に造営して、御遷祀した。以来、朝野の尊崇極めて篤く、陽成天皇の御代(877年~884年)には正一位の神階を授けられ、併せて社殿の修営も行われた。次いで醍醐天皇(897年~930年)の延喜の制では、名神大社に列せられ、月次・新嘗の官幣社として記されている。更に、円融天皇(969年~984年の)御代には当社を勅願所と定められた。武家執政の世になっても、源頼朝を始め各武将も崇敬深く変わることなく、徳川幕府に至るまで、代々神領を寄進し、社殿の修営を行い尊崇が深かった。明治維新の神道復興の時運に際し、御社頭の整備が行われ、明治32年に本殿・拝殿・楼門が特別保護建造物に指定された機会に国庫補助を受けて解体修理の大事業が行われている。大正13年に県社から官幣中社に列格される。(出典*1)
祭神の天之御影命は先代旧事本紀では饒速日命に付き従った神々の一人で、当社神職の家系にあたる氏族、三上氏の祖とされる。旧事本紀の天神本紀には「天ノ御陰命 凡河内直等祖」とあり、河内直ということは前項で触れた交野物部氏に近い存在だったのではないか。いずれにせよ古代における物部氏の係累は隠然たる力を持っていたと考えられる。
拝殿
本殿
森に包まれた境内は整然としてたいへん清々しい空間だ。楼門(国重文)、拝殿(国重文)、本殿(国宝)のいずれもが鎌倉時代後期の築造であり、楼門は寺院、拝本殿は書院造を思わせる。中世には東光寺という寺であったらしく、神仏の折衷した面影が建物にも残っている。近江のおもしろさはこうしたところだ。時代のメインストリームにはいないものの、奈良や京都では味わえない歴史や文化の”あわい”が感じられるのだ。白洲正子が好んで近江に通ったのもうなづける。
境内の磐座
境内の散策はほどほどにして三上山の登山口に向かう。標高432m、片道40分。道は整備されているというので安心して登ることができる。表登山口から獣除けの鉄柵を開けて山道に入る。すぐに「魚釣岩」という巨岩に出会う。案内板におもしろいことが書いてある。「大昔、琵琶湖の水位がこの付近まであったころ、神がこの岩の上から魚を釣っていたといわれ『魚釣岩』とよばれています。三上山は野洲市内最古の古生層で形成されており、山頂付近には大きな岩石が露出しています」。この見立て、想像力は現代の僕たちにはないものだ。うれしくなってしまう。
しばらく石段を登っていくと三叉路に出る。右の迂回路を行くと「割岩」なる巨岩があった。鎖場である。日本霊異記には沙門や優婆塞が三上山を行場としていたとの記述が見える。峰続きの東光寺不動山は今も修験者の行場らしく、神仏習合の頃は行者が盛んに山中を巡っていたのだろう。鎖を伝いながら登ってみる。登山の心得が少しあれば軽いものだ。少し先に行くと眺めのよい場所に出た。野洲市街の先に琵琶湖と比叡山が望める。「いやぁ、気持ちがいい」と独りごちる。
岩場をせっせと登っていくとあちこちに巨岩。注連縄さえ懸けてしまえば即席の磐座である。巨岩マニアとしては堪らない山だ。登山口から50分。山頂に着いた。先客の家族連れが奥宮の前で手を合わせていた。小学生と思しきお嬢さんが二人。リュックは持たず、スカートにタイツの軽装なので、気分はハイキングというよりピクニックなのだろう。声を掛け、下山の道の様子を尋ねると、大したことはないとの由。彼らが参拝を終えて下山するのを待ち、ゆっくり奥宮と磐座を観察することにした。
御上神社奥宮
山頂の岩盤の上に坐す巨石はいかめしく、これぞ磐座といった感がある。山頂付近は花崗岩から成っており、磐座の生成には打ってつけの地層なのだが、この磐座は岩盤の上に載せられたようにしか見えない。山頂が平らに開けていることも含めて考えると、誰かが据えたものではないだろうか。開けた山頂は神が降臨する場として好適だが、そこには神が宿る何らかのモニュメントが必要になる。憶測に過ぎないが、磐座の背後にある鳥居と小祠はずっと後になって設けられたもので、この岩こそが祭祀の対象だったように思う。野生の感覚からすると、祈るべきはこの岩なのである。往古の神は巫者の降神儀礼によって自然物に依りつくもので、社殿や祠に常住する物ではなかった。だが、いつのまにか神様は本殿の中に坐す存在として認識されるようになった。人間にとって神は永遠の存在である。文明がいかに進歩しても、アニミズム的感性は失ってはならないとあらためて思うのだった。
八大龍王神社
下山をはじめるとすぐに八大龍王社の前に出る。岩を寄せた上に祠が立っているので、ここも元々は磐境であったようだ。ご存じの通り、八大龍王は水の神である。御上神社の氏子が祀ったと伝えられるが、山からもたらされる水は農耕にとって欠かせない。そのことを象徴する場所が御上神社の脇にある。天皇即位後に行われる大嘗祭の悠紀斎田である。
昭和天皇悠紀斎田跡地
悠紀斎田については説明を要するので、長くなるが東京都神社庁のホームページから引用しておく。
悠紀国(ゆきこく)と主基国(すきこく)
大嘗祭は、天皇陛下が即位後初めて新穀を皇祖・天神地祇(てんしんちぎ)に供えられ、親(みずか)らも召し上がり国家国民の安寧と五穀豊穣などを感謝し祈念される儀式です。この大嘗祭において、新穀を奉る地方を悠紀国と主基国と言い、「悠紀」とは「最も神聖で清浄である」、「主基」とは「次」という意味があります。現在では新潟、長野、静岡の線で、国内を東西に二分して、その三県を含む東側を「悠紀の地方」、それより西側を「主基の地方」と定め、亀卜によりそれぞれの都道府県が卜定されます。その後、卜定結果を宮内庁長官が天皇陛下に上奏して御裁可を仰ぎ、悠紀・主基両地方の勅定が下ります。
このようにして定められた悠紀・主基両斎田では、祓式の後、御鍬入れ式、播種式等が行われ、六月頃には御田植式が斎行され、以降十月まで、それぞれの地方の人々は、来るべき大嘗祭にたてまつるべき新穀を、数々の農耕儀礼を斎行しつつ、丹精をこめて稲作にご奉仕します。
斎田点定(さいでんてんてい)の儀
大嘗祭に新穀をたてまつる神聖な田のことを「斎田」といい、全国から選定された二個所に設けられ、それぞれ「悠紀田」「主基田」と呼ばれます。その選定の儀「斎田点定の儀」は、宮中三殿の神殿の前庭において古代のままの亀卜(きぼく)の法【亀の甲を波々迦木(ははかぎ)に移した斎火(いみび)で焚き、その甲の亀裂によって悠紀・主基両地方を卜定(ぼくじょう)する方法】により神意を伺い斎田を決定します。(出典*2)
本当かどうかは知る由もないが、いまだに亀卜で決定しているのである。おおまかに都道府県を決めてから適地を探すのだと思うが、昭和天皇の大嘗祭に際しては当地に白羽の矢が当たったのである。因みに、御上神社の祭神である天之御影命は日本第二の忌火(斎火)の神とされており、なにかの因縁を感じる。
それにしても令和の米騒動、どう決着するのだろうか。
(2022年3月29日、2017年7月8日)
出典
*1 御上神社ホームページ
*2 東京都神社庁ホームページ
参考
宇野日出生「御上神社」/所収「日本の神々 神社と聖地 第五巻 山城・近江」1986年
中田祝夫「日本霊異記(下)全訳注」講談社学術文庫 2018年
大野七三編著「先代舊事本紀 訓注」新人物往来社 1989年