蓋井島
 山ノ神の森 四の山:山口県下関市大字蓋井島字高野140
 牛神の森:山口県下関市蓋井島蓋井島町
 行者の森:山口県下関市蓋井島蓋井島町
 八幡宮:山口県下関市蓋井島305
住吉神社:山口県下関市一の宮住吉1丁目11−1

前稿から続く)



蓋井島の中心にある山を巻くように歩いていく。この島に林業はない。大規模な伐採や植林がないのでまったくの原生林といってよいのではないか。樹木のつくりだす風景は野生そのものだ。とくにスダジイの群落は見ていてほれぼれとする。くねる枝々は上手に均衡を保ちながら見事な森をつくっている。歩いていると向こうから軽トラックがやってきた。おじさんが「どこ行くの」と声を掛けてくる。こんなところを歩いている輩を見かけることは少ないのだろう。四の山へと答えると「道なりだと少しかかるけど、そこ上がってくと近いよ。エミューの牧場があって四の山はその前にある」と教えてくれた。島の人々は概して人懐こく、親切なのである。



 

どうしたわけかこの島にはエミューの牧場が二ヶ所ある。漁業者が対岸の下関の寺でこの鳥に出会い、住職に請うて飼育をはじめたらしい。当初は肉を販売しようとしたがうまく行かず、今は脂を採取してスキンケアクリームとして売っている。山を降りてきたところにも休耕田を利用した牧場があり、エミューが四羽うろうろしていた。閑話休題。道を挟んだ向かい側に小山があり、こんもりとした森をつくっている。脇道からすこし入ると右手に入口があり、丸太を渡した簡易な階段が続いている。上ってみると平らにならされた空間があり、奥に森の神が鎮座していた。

 

四の山全景

 

 

こちらの神籬は他の山に比べると少し低く、ずんぐりとした感じだ。昨年の11月に行われた神事の跡が生々しく残っている。神籬の中には「ひとふごも」(神の依代の御幣を包んだ菰のこと。巻き簀のようなもの)が手向けられ、「おごく」(白飯、小豆飯の供物)が撒かれていて、その奥に一夜作りの甘酒を入れる素焼の壺が見えた。神籬の前には七十五個の小餅を載せるための小さな板(朴の割木)が散乱している。この小餅はかつて氏子が競って奪い合う習わしがあり、うまく盗み取った者は運がよいとされ、盗み取られた方は運が悪いとされたらしい。神事の詳細は文末の参考文献をあたってほしい。四の山の旧地名は「田の口」と称し、一の山から三の山のある「筏石」よりも後に開かれている。距離も離れており、いわば新開地といった位置付けなのだろう。一の山は祖父、二の山は祖母、三の山はそれらの娘、四の山は娘婿を祀ると伝わるが、祀り方にほぼ異同はなく、四の山も祖型を継いでいる。



 


考えてしまうのはこの神事の持続である。昭和33年の国分直一らによる調査とこれに続く重要文化財指定がなければ、今も往時に近い状態で神事が催行されていたかどうか疑問だ。島に人が住む限り続くとは思うが、令和7年4月1日時点の住民基本台帳によれば現在の人口は72人、世帯数38である。四つの山があるので人口が大きく減少するとすべての神事は叶わないだろう。これは離島に限らず、過疎化が進む地域のほとんどが直面していることだ。各地の神楽などを含め、伝統文化を保存する意識や態度はもっと旺盛であってよいし、なによりも高齢化と過疎の同時進行にどう対応していくかは喫緊の社会課題だ。こと人口については自然増減を食い止めることなど不可能である。社会増減も首都圏や都市部への転入を制限するなど、よほど思い切った国策でも講じない限り同様だろう。



四つの山を巡ったあと、少しお腹が空いたので港にある島唯一の売店に行ってみた。離島にありがちな、あらゆるものを扱う商店だが残念ながら弁当の類はなく、菓子パンが申し訳程度にあるのみだった。仕方がないので缶ビールとスナック菓子、土産用にとエミュークリームを求める。勘定しながらなんとなく初老の男性店主との雑談がはじまる。僕がこの島の森を褒めると店の奥から分厚いアルバムを引っ張り出してきた。「私も年をとってから島のことが気にかかってたまに見とるんです」と言う。それは装丁を施した立派なアルバムで扉には「昭和33年度 山の神神事記録写真集」とあった。幾葉かの写真は所有する文献で見た覚えがあったが、印画紙にプリントされたものを見るとまた違った印象を受ける。神々を迎えた際の大賄いは各山で行うが日にちは変わること、神事は一の山から順番に行い、ひと山に二時間くらいかかること、島の名の由来が二つあり、下関の一宮住吉神社との関係が深いことなどを伺った。

店主は松本さんといい、二の山の氏子でかつて漁協(自治会も兼ねている)の組合長を務めていた。アルバムは組合でつくったものだが不要になり、組合長を辞する時に貰ってきたとの由。他にも写真がいっぱいあったが、資料の散逸を防ぐため下関市に保管をお願いしたという。こうしたものに触れられるのも訪れてこそである。お礼を言って店を辞し、港の前の東屋でビールを呑みながらシマ猫と戯れていると、松本さんが店から出てきてこちらにやってきた。昨年の神事が掲載された「しま」という季刊誌を持ってきてくれたのである。ついでに他に森を祀っている所はないかと尋ねると「牛神の森」と「行者の森」の場所を教えてくれた。島の人に聞かなければ絶対にわからない場所である。

 

 

売店の脇の坂を上っていく。道は細く、軒の低い平屋が多い。庭を覗くとたくさんの猫が集まって日向ぼっこをしている。いかにも漁師の集落だ。「牛神の森」は四の山に向かう途中の三叉路の一角、いかにもシゲ地といった場所にあった。草叢をかき分けて森の中に入っていくと、短い石段の先の樹木の下に小さな石祠が傾げていた。森の佇まい、祀り方は若狭大島のニソの杜や指宿のモイドンに酷似している。山ノ神の森とは異なり、一層プライベートな聖地空間であり、その聖性に触れてほんの一瞬だが鳥肌が立った。一方の「行者の森」は集落に向かって下っていく道の脇を上った場所にあった。松本さんによれば以前は手前の山寄りにあったものを道路工事のために移したとのことだ。枯れ草の繁る中で石祠がぽつねんとしていてどこか寂しい感じがする。まだ祀っている人がいるらしいが、あと十数年もすれば島の人々の記憶からその姿を消してしまうのではなかろうか。


牛神の森

牛神の森の祠

行者の森


船が出るまでにはまだ時間があった。再び二の山へ向かい、島名の由来になったという「水の明神」の祠の中の蓋を確かめに行く。つま先だって覗き込むとたしかに石の蓋がしてある。離島の多くは水利に恵まれなかったことを考えると、蓋をするのは至極当然のことであっただろう。ここは飲用、灌漑に供される貴重な水源、井戸であり、一の山から三の山が属する「筏石」という古代集落において最重要なライフラインであった筈だ。ゆえに「神」なのである。「筏石」という地名もこの石の蓋の形状に由来するのではないかと思えた。

 

水の明神の祠の中

 

二の山の手前の八幡宮にも寄ってみる。この島は神功皇后に因む地名やエピソードが多いので八幡宮の鎮座はもっともなのだが、こちらの例祭は往時の若者にとっては山ノ森の神の神事に比べるとずいぶん楽しいものだったようだ。八幡宮では神輿を担ぎ、縁日も出るだろうが、後者は神事の際に祖霊を憚って声ひとつ立てられない厳粛さがあり、準備や進行も含めて相当面倒臭かったらしい。その八幡宮の鳥居の脇に井戸のようなものがあった。蓋ではないがコンクリート製の屋根をかぶっている。なんだろうと中を覗いていたところ、軽トラックで通りかかった漁師と思しき男性が声を掛けてきた。水を汲みに来たという。そのまま飲用したり、コーヒーを淹れたりするらしい。奥方がこの水にご執心で、曰くがんや万病にならないとの由。この井戸は海のすぐ近くにあるが真水であり、日によって色が変わることがあるものの枯れたことはないらしい。正に山の恵みである。野晒しなので衛生的にどうかと思ったが、柄杓で掬ってくれた水を口にすると微かな甘みを感じたのだった。

 

八幡宮の鳥居と井戸


翌日、下関の住吉神社を訪れた。神功皇后の三韓征伐に因む古社で長門国一宮、延喜式では名神大社に列する。主祭神は住吉三神の荒魂だ。拝殿は重文、本殿は国宝に指定されており、三大住吉の名に相応しい威風を感じる。ここもまた森である。本殿裏の社叢は県指定の天然記念物で、航空写真で見ると一帯は森であり、その範囲は3km四方に及んだものと思われる。その谷間に鎮座するのが当社なのである。蓋井島の山ノ神の森にこと寄せれば、往古は神住まう森だったのではないか。社殿向かって東側に出ると山ノ神の森を彷彿とさせる場所に出会った。うろのある樹木の下に巨石が散在している。注連縄が張られていて中には入れないが、これは明らかに神籬と磐座であろう。



住吉神社境内の神籬と磐座

 

前稿で記した通り、当社と蓋井島の二の山にある「水の明神」には深い関係がある。境外にある船楠という神木の前の案内板には以下のように記されている。

蓋井島の住吉神社に供える御水は、沖つ借島(蓋井島)にある井戸の水を毎日楠船で運んでいたが天平宝字年間(七五七〜七六四)時の大宮司山田息麿は海の荒れる日、神供出来ないことを憂い、神気を伺い、御井を山田邑(現在地)に移したと伝える。このことから神水を運ぶ必要がなく、繋ぎ置かれた楠船に根が生え繁茂したといわれる寄瑞の霊木である。尚、移水の真名井は、これより三十m南寄りに現存する。平成八年三月一日記 住吉神社々務所

以上、三回にわたって下関の森の神をとりあげてきた。最後に山口県下の森神を多く踏査した歴史民俗学者、徳丸亞木氏の論文の一部をお借りして本稿を締め括りたい。

山口県下で共同体単位で祭祀される「森神」には、地域の地理的・生態的環境に即した生業形態に応じて、水稲耕作農業神、畑作農耕神として祭祀される傾向がみられる。(中略) 県下には数年周期で祭礼を行う<年祭>を伴う「森神」が展開するが、その多くは谷間の水源に祭祀される水源祭祀の「森神」であり、その儀礼要素の分析からは、<稲作類型>と<畑作類型>の複合をみいだす事ができる。また、蓋井島の山ノ神など、それらの「森神」で行われる儀礼や由来伝承には、死霊祭祀の観念をみいだし得る。そこには開墾した土地の地霊を周期的に迎え祀る事により慰撫し、守護神として再生させる観念の存在を指摘し得る。(出典*1)

(2025年4月23日、24日)

出典
1 徳丸亞木「山口県下における『森神』祭祀の展開」
   所収「森神信仰の歴史民俗学的研究」東京堂出版 2002年

参考
国分直一「蓋井島の山ノ神神事」所収:谷川健一編「森の神の民俗誌」日本民俗資料集成第21巻 三一書房 1995年(底本は「日本民族文化の研究」1970年)
文化財保護委員会編著「やまの神事」平凡社 1970年
岡谷公二「神の森   森の神」東京書籍 1987年