蓋井島 山ノ神の森
一の山:山口県下関市大字蓋井島字乞月224-1
二の山:山口県下関市大字蓋井島字筏石230-5
三の山:山口県下関市大字蓋井島字乞月225-2
船は上下に大きく揺れ、波しぶきが窓に打ちつけられる。次々とやってくる波を受けて舳先が大きく上向き、尻が浮いたかと思うと深く沈み込むことを繰り返す。まるで遊園地のアトラクションである。出航する時の海は凪いでいるように見えたのだが。
船客は蓋井島出身と思しき高校生の男女、釣り人二人、中年男性一人、そして僕の六人のみだ。船内のテレビから流れる音声以外は静かなもので、他の乗客は慣れているのかまったりと寛いでいる。吉見港を出発して30分。島影が見えはじめる。思っていたよりもずっと大きな島だ。船はゆっくりと港に入り、接岸した。
上陸すると目の前に島の売店と漁協の建物。港には近海で漁を営む小ぶりの船が停泊している。久々の離島だ。観光ずれしていない長閑な景色に気持ちが和む。前稿に書いた通り、今回の旅の目的はこの島の山ノ森の神を訪ねることだった。先に蓋井島の概要を引いておく。
・面積 2.32平方キロメートル
・人口 80人
・世帯数 40世帯
・本土からの距離 14.0キロメートル
・学校 蓋井小学校、蓋井中学校
下関市吉母の北西約6キロメートルの響灘に浮かぶ島です。海上交通の要衝として、古くから九州や大陸方面との交流があり、島の地名や伝説の中にもこれを伝えるものが多く残されています。 島の伝統行事として、「山ノ神」の森で7年目ごとに催される「山ノ神神事」は、我が国古来の神事の型を伝えるものとして、非常に貴重なものとされています。島の周囲には険しい岩石海岸が続き、日本海の荒波で侵食された岩門と名付けられた洞窟など奇岩が多く見られます。また、周辺海域は、海流の影響もあり海産物の宝庫で、アワビ、サザエ、ウニなどの海の幸が豊富に採れます。
(出典:山口県ホームページ 離島・蓋井島)
島の名の由来は二つある。ひとつは、神功皇后がこの島に立ち寄った際にこの島の水をほめ、その後を蓋で覆ったため。もうひとつは、かつて島内に清水を湛えた池があり、住吉神社の神事に御神水として用いていたが、汲み終わった後は固く蓋をして誰も池の水を取ることができないようにしていたためである。なお、この島には神功皇后の伝説に因む地名が多いという。
早速、海岸沿いを島の西側に向かって歩いていく。ほどなく海に面した鳥居が目に入った。鳥居の脇には「重要有形民俗文化財 蓋井島 「山ノ神」の森(ニの山)」と彫られた石標が立つ。この石碑がなければ、少し入ることが躊躇われるかもしれない。
鳥居の前で一礼して森に入っていく。入ってすぐ左に降ったところに井戸があり、正面に「水の明神」の立札と祠がある。島名の由来のひとつはこれだろうと祠の中を覗くとたしかに蓋がしてある。山と森と水の関係をあらためて思う。水道が引かれる前にはここが水汲み場の一つで、集落の人々は日々ここに水を汲みに通ったのではないだろうか。離島の水はたいへん貴重な生活資源なのである。
右手の小高くなったあたりにただならぬ気配がある。見上げると二の山の神事の跡だった。椿の幹の周りにたくさんの枯れ木の枝を寄せて囲み、紙垂を下げた細い注連縄で幾重にも巻いてある。なぜか雪駄が立て掛けてあり、手前には小さな木の板がたくさん散らばっている。中を窺うと浜の石が大小三つ、紙垂を結んだ細竹が十数本。こんな祭祀の場はこれまでお目にかかったことはない。
訪れる前にあらかたのことは文献で調べ、写真も見て概要はわかった積りになっていたが、その印象はかなり違う。神事は昨年の11月に行われ、ここにあるのはいわば残骸なのだが、逆にそれが生々しい。片付けずに残しておくのも何かの意味があるのだろうか。今ここには神事に参加した大勢の人々がいないだけに、この樹木を中心としたトーテム(島では神籬と呼ばれている)にあたかも神が宿っているように見える。いや、山ノ神が目の前にいるかのような感さえ覚えるのだ。
動きはしないが、その姿形は悪石島のボゼや硫黄島のメンドン、宮古島狩俣のパーントゥを彷彿とさせ、このしつらえ自体、南方から海を渡ってきたのではないかと思わせる。春の陽光が森にさしこみ、遠く聞こえる潮騒に呼応するかのように樹々の枝葉もさんざめく。正に自然のリズムだ。
一の山と三の山はすぐ近くにあった。二の山を出て来た道を少し戻り、舗装された道を右に入っていくと右側の小山の上に三の山、その先の左手の谷間に一の山がある。このあたりの地名は古くは筏石といい、七世紀末から八世紀初めの集落で掘立柱のある住居跡や貝塚が発掘されている。少なくとも飛鳥時代以前から山ノ森の神は畏怖の対象だったのだ。一の山から入ってみる。
道路脇から左手に下っていく。二の山に比べるとかなり広く開けており、奥の斜面に神籬がある。その存在感は周囲の樹々と画されたもので、遠目にも明らかにそれとわかる。どことなく南方の風を感じさせるが、パプアニューギアの森にこれと同じものがあってもまったく違和感は覚えないだろう。しつらえは二の山と大きな違いはないが、神事の遺物には小さな竹の手桶が二つ加わっていた。また神籬の中には壺が一つ埋められており、その奥に稲藁を束ねて御幣とした神体が入っている。祭りの遺物はそれぞれに機能を持っているのだが、神事の詳細を知る必要がある。ここではリンクにて簡単に紹介しておく。前々回2018年の記録映像(山ノ神神事 2018年 毎日新聞)もあるのでぜひご覧いただきたい。さらに詳しく知りたい方は、文末に記載した文献を参照してほしい。
一の山というからにはここがもっとも早くできた山なのだろう。島民は四つの山いずれかに属し、協力して神事の準備を行うが、神事の基本形はほぼ同じである。おそらく一の山から順に伝わったものと考えられる。その意味では一の山には本家とか宗家に近いニュアンスがあって、一の山は祖父、二の山は祖母、三の山はそれらの娘、四の山は娘婿を祀るものと伝わっている。一の山の祭祀空間の広さはこれを象徴しているように思われた。
続いて三の山だ。二の山の裏の小山の上にある。道路から簡素な石段を数段上ると青竹でつくられた鳥居があり、その先の一帯は広場のように均されていた。一の山も同様だったがこの祭場をつくるために造成したような印象を受ける。奥に神籬がある。神籬は榊など若木一本というのが僕が持っているイメージなのだが、このように寄せ木をして注連縄で幾重にも巻くというのはメラネシアや東アジアなどからやってきた文化なのではないかと思える。
かつて山ノ神の森は六年ごとの神事の日のほかは立ち入ってはならず、これらの森の樹木を伐ったり、足についた土を持ち出したりすることすらかたく戒められていた。また、調査にあたった国分直一は、神事の準備が男性中心に行われることから、かつては女人禁制とされていたのではないかと推定する。神事の際は笑声をあげることもできなかったといい、厳粛な祭りだったようである。いまは文化財指定されており、島外の人間もさほど抵抗なく森に入っていけるが、濃緑の樹叢を「神住まう森」として見るとやはり一抹の躊躇いがある。
さて、最後に四の山に向かう。四の山は集落を挟んで反対側の田の口にある。戻っても面白くないので、一の山から道を上っていって島の中心部の外縁をぐるり一周することにした。この散歩で、僕はこの島の森の神を実感することになった。そこは原初から変わらぬ原生林であり、生き物の気配を濃密に感じる森だった。たとえば対馬の天道山、熊野の深奥にある山々、白神山地などと同じく、神が住まうに相応しい森である。縦横無尽に枝葉が伸び、広がってひと塊になっている。
結界のような様相であり、地上の小宇宙といってもよい。こうした無数の小宇宙が山となり、さらに山々が重なり合い、島となっている。奔放で自由な姿に見えるが、一方できわめて精緻なバランスを持って巨大な生態系をつくっているように見える。相互に影響はされるものの、強くは干渉しない。本来の自然のありようといえるのではないか。この感覚を表現する言葉を僕は持たない。森の中に身体を任せることでしか得られない感覚なのである。樹々の枝葉が折りからの風でざわめいている。
次稿では四の山や集落に近い二つの小さな森などを通じて、森神信仰の意味を考えてみたい。
(2025年3月23日)
参考
国分直一「蓋井島の山ノ神神事」所収:谷川健一編「森の神の民俗誌」日本民俗資料集成第21巻 三一書房 1995年(底本は「日本民族文化の研究」1970年)
文化財保護委員会編著「やまの神事」平凡社 1970年
岡谷公二「神の森 森の神」東京書籍 1987年