モリサン:山口県下関市豊浦町大字厚母郷字大休庵
杜屋神社:山口県下関市豊浦町大字黒井1541
川棚のクスの森:山口県下関市豊浦町大字川棚
今回の旅の目的は、響灘に浮かぶ蓋井島の聖地「山ノ神の森」を訪ねることだった。これまでも若狭大島のニソの杜、薩南のモイドン、対馬の八丁郭、南西諸島の御嶽や拝所といった森の神を訪ねてきたが、そこは神住まう、或いは降臨する場所とされ、かつてはどこも禁忌の伴う聖地だった場所である。森や樹木への信仰は石の信仰とともに僕たち日本人の宗教観の最奥にあるものだ。今も禁足地とされる場所の多くは森である。たとえば気多大社の入らずの森のように、多くの神社は本殿の背後に森を持っていて容易に足を踏み入れることができない。首都圏にもそうした場所はいまだあり、市川市の八幡の薮知らずが知られるが、川崎市生田区にもこうした場所があるという。森はつい先頃まで神やもののけが住まうところで、周辺に暮らす人々にとって畏怖の対象だったのである。この旅で出会った森も、そうした畏怖を今に伝えるものだった。本稿から三回にわたって森の神について書く。しばらくの間、お付き合いを願いたい。
蓋井島に渡る前日、山口宇部空港に着いた僕は一路下関の梅ヶ峠に向かった。車窓から眺める山は総じて低く、植生も瀬戸内海沿岸部とは少し異なる感じを受ける。関東では三月下旬にいきなり杉花粉の飛散が増え、目が痒くて仕方がなかったのだが、こちらに来てからはあまり感じない。杉の植林が少ないのだろうかなどと考えながら、目的地の近くに到着した。
ここを訪れたのは民俗学者の国分直一が1957年に書いた「森の信仰」という小論の最後に取り上げられていたからである。私淑する仏文学者・美術研究者の岡谷公二氏も同じくこの文章に触れて40年前にここを訪ねているが、ひとにぎりの研究者を除いてこの地を踏査する者など皆無と思われる。ネット検索すれども「大休庵」という小字が見えるのは土地の売買物件情報ただ一件のみで、他にまったく手掛かりはない。この地の「森の信仰」はまだ生きているのだろうか。まずは国分直一の小論「森の信仰」にあるモリサンの部分を引いてみる。
山口県豊浦町の大休庵は戸数10戸の小集落である、里から山にはいる入口の一群の森をモリサンとよび、毎年モリサンゴモリをして敬虔な信仰を捧げてきている。旧三月二十日に夜籠りしてきたというが、祭りは秋に多いからとて、この頃は九月二十日にモリサンゴモリするようになったという。モリサンには杉の巨木があり、その下に大歳、御歳、若歳の三神が祀ってあったというが、明治四十四年、豊浦町杜屋神社に合祀するに至ってそれら三神も移されたという。その後聖樹が立ち枯れはじめたので杜屋神社のタイウサン(注)にはかり、伐ってしまったとて、今は巨杉は見られず、森の前の空地には石造の小さな祠と石塔が設けられていて、村人はその石造祠にぬかずいている。タイウサンは村人とちがって杜神社といかめしくよぶ。タイウサンの仕えている杜屋神社(式内社)もモリサンであったものだろう。(出典*1 注:タイウサンは太夫さんのこと。おそらく当社の宮司だろう)
見る限り今は新興住宅地で立ち並ぶ家も新しいものが多いが、集落の北側には石州瓦を葺いた元農家と思しき家々があり、近隣にはわずかに田畑らしき土地もある。引用の記述からはモリサンの跡地は山裾にあることは間違いなく、岡谷氏の紀行エッセイも頼りにしながら、事前にGoogle MapのARであたりをつけてみると山への入口が一ヶ所見つかった。おそらくここではないかと路駐する。当の山への入口に向かい、中に進んでみる。
ここしかないという直感めいたものがあったのだが、そのまま進んでいくと案の定、細い注連縄が回された一角に出た。奥に石祠一基、石塔二基が肩を寄せあっている。憑代とされたであろう大杉の神樹はないが、間違いなくモリサンだ。これまでに訪ねた森神と似ている。誰か参拝する者がいるのだろうか。祈りの質量はその場に赴くとよくわかる。霊感ではない。注連縄など聖地空間を認識させるしつらえ、供えられた種々でわかるのである。新しい榊や紙垂があれば、最近人が訪れて祈りを捧げたということなのだ。だが、ここに誰かが詣でた形跡はない。国分直一によれば、かつてこの森には人々が籠って祈りを捧げていた。初夏を迎える時期に甘酒や子供の頭ほどの大きな握り飯を作り、モリサンの許しを得てモリの枯れ枝を集め、赤々と焚き火して夜籠りしたという。この小文が書かれた時には、すでに森に替えて当屋に集会するようになっていた。古くから大休庵に住む人々しか知り得ない聖地だが、モリサンゴモリを行った人々のほとんどはもうこの地に残ってはいないだろう。長く続いた民俗信仰も文化財として公の保護が得られない限り、やがて葬られていくのだ。
続いて大休庵のモリサンが合祀されているという杜屋神社に向かう。醍醐天皇延長五年(927年)に延喜式に撰進された長門国五座の一社で、村屋神社と記載された古社である。祭神は三穂津姫神で、日本書紀神代下第二の一書に高皇産霊尊の娘で大物主の妻として名が見える。神名は稲穂の神だが、穀霊、農耕神であり、後世にこの神を当てたものと思われる。鳥居をくぐって神橋を渡ると神門、その先に拝本殿がある。本殿の裏には磐境と神籬があり、祭祀の古態を思わせる。この磐境は長らく当社のトーテムであったのだろう。長門国三の宮の割にこぢんまりとはしているが、境内の照葉樹林は素晴らしい。時折吹き抜ける春の風を喜ぶかのように樹木の枝葉がさんざめき、気持ちがいいことこの上ない。樹々の生命のざわめきの前にはしかつめらしい祝詞など似合わないと思った。
これは明らかに森神である。Google Mapの空撮を確認すると森の最奥に磐境があり、ここが森の神を祀る場所であったことが確信できる。大休庵のモリサンからは3km程度の距離であり、この一帯には森神信仰が深く根を下ろしていたと思われる。
磐境の右後方にはまだ新しい一間社流造の社殿が立っていた。ここに近隣の神々を合祀してあるのだろう。下から軒を窺ってみると、合祀した祭神名を記した二枚の絵馬の板が掛かっていた。そこにはたしかに「大久庵・西明寺久信 廣幡(下部不明)」との墨跡があった。廣幡は八幡に通じ、誉田別命(応神天皇)を指すが、下関には両親の仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰を祀る神社が多い。おそらくは元々の森神に八幡神を上書きしたものだろう。
右側の板、右から三列目に大久庵と見える。
一般に神様と言えばアマテラスやスサノヲなど神話上の人格神を思い浮かべるがより古い信仰では水、岩石、樹木、太陽、月などの自然を神々として畏怖した。森への信仰も同様であり、その発生が有史以前であることはいうまでもない。初期人類はアフリカ大陸の森の中で生まれ、地に降りて二足歩行を獲得し、森から出て進化を遂げたのである。生命を胚胎する森への観念はDNAの記憶に刻まれて、いまだ僕たちの中に息づいているのではないか。
この日、川棚温泉に投宿する前にクスの森を見に行った。樹齢千年の一本の大楠だが、幹から分かれて縦横無尽に枝を伸ばす様子が森のように見えることからこの名で呼ばれている。威容といっていい姿はたしかに神々しい。だが、近くに寄ることはできず、柵の外側から遠巻きに眺めるしかなかった。NHKのドキュメンタリー番組で知ったのだが、この大楠は2017年夏頃から急に枯れはじめ、枝に葉がつかなくなったという。公園化による盛り土が影響して、根に酸素が行き届かなくなったらしい。一時は葉が全て落ちたとのことだが、地中の透水性や通気性の改善により、訪れた時にはかなり回復し、元気な姿を見せていた。
国の天然記念物であり、地域の観光資源だからといって、いたずらに整備したり、対応に困るほど観光客を呼び込むのはいかがなものだろうか。現代社会はあらゆることにおいて過剰である。その過剰さの源は高度資本主義経済が生む”飽くなき欲望”だ。屋久島の縄文杉は木の周囲を皆伐され、多量の雨と強風で土が流され根が露出し、さらには多くの登山者が根を踏みつけた。東京の神宮外苑の樹木伐採も都市再開発による利便性向上のためだ。もっとお金を生むように、もっと便利になるように、もっと、もっと、もっと…なのである。かつて南方熊楠が神社合祀政策に反対したのは森を失うことへの危惧だった。経済的あるいは政治的な欲望が、自然、文化、歴史、地域の生活などを様変わりさせてしまうことを、僕たちはもっと自覚した方がよいように思う。大切なのは未来なのだ。
旅を続けよう。次は蓋井島に渡る。
(2025年3月22日)
出典
*1 国分直一「森の信仰」 所収:谷川健一編 日本民俗文化資料集成第21巻「森の神の民俗誌」三一書房 1995年
参考
岡谷公二「神の森 森の神」東京書籍 1987年