山神社:山梨県韮崎市穂坂町上今井2234

「お腰掛け」なる奇妙な構造物を知ったのは山梨県下のミシャグジの下調べを行っていた時のことだ。ミシャグジは諏訪信仰の源流とされる精霊で、樹木の下に縄文時代の石棒および石皿とともに祀られている。御社宮司、御左口などの字が当てられることが多いがこれらを社名とする神社は山梨にはないため、Google Mapでエリアを絞り込んで「神社」をキーワードに一社ずつ確認した。クチコミや画像からおおよそのあたりはつくのだ。その中に四角い大きな枠組みのような不思議な構造物の画像があり「お腰掛け」と称することがわかった。この十年、国内の社寺を中心にさまざまな聖地に赴いたが、こんなものは見たことがない。これは一体なんなのだろうか。御柱に関係するのか、冠木門の発展形なのか。いたく好奇心をそそられたのである。

なにかしらの示唆が得られるだろうと思い、前日の夕方に韮崎市民俗資料館を訪問し、館長と思しき学芸員の方に尋ねてみた。あまり詳しくないと前置きしながら話してくれたことは以下の通りだ。

よくわかっていないが御柱とは関係ないと思う。神様が大き過ぎて社殿の中に入らないのでお腰掛けをつくって腰掛けてもらうことにしたと伝わっている。穂坂町、旧明野町、敷島町にしかない。なにぶんにも記録がなく、今ある拝殿など建造物の棟札からは江戸時代中〜後期くらいまでしか遡れない。そんなに古いものではないのではないか。そもそもお腰掛けの前に社殿があったのかどうかもわからない。山神社には駒ヶ岳の修験者が来て祀りを行っているが、お腰掛けを対象としたものではないと思う。このあたりの神社はみな金峰山の方を向いているので或いはそちらの修験者の影響もあるかもしれない。木で作られたものは朽ちると新しいものに替える。石のものもある。ふと気づくと路傍にもあったりする。山神社はとにかくおもしろい。びっくりすると思う。明日行くのなら詳しいことは言わないでおく。

こんな話をされると好事家は堪らない。翌日の探訪に胸を膨らませながら北岳山麓の昭和感満点の温泉宿に投宿した。

翌日は天気に恵まれた。中央本線、中央高速道路を横断し、小さな集落が点在する山間を行く。左手に駐車場らしき場所があったので車を停め、道を渡ってすぐ右手の林道に入っていく。竹林の中をしばらく歩くと開けた場所に出た。正面に神楽殿、手前に参集殿があって、このあたりでは規模の大きな神社だということがわかる。境内の隅に大理石に由来を彫った碑があったので写しておく。

 

 

 

甲斐国巨摩郡郡北山筋上今井村山神大権現の儀は今を距ること一二八六年の前人皇第四拾弐代文武天皇御宇慶雲元甲辰年三月十七日西山大笹池平と云ふ地より龍王新町赤坂に鎮座ましまし その後一二六六年の前第四拾五代聖武天皇の御代新亀元甲子年神託のお告げありて十一月中の亥の日 当所湯の沢山に遷座まします 然るに御神体は五丈五尺と申し伝へられ往古より御殿之なく帯縄と称し三十三尋の縄を引その中央に高一丈四尺のお腰懸をしつらい左右に石を立つ之を西の王子東の王子と称す 祭礼前夜より神楽ありて終夜庭燎を焼く 女人禁制の霊地にして穢火不淨忌む 誠に威厳増します 祭日未明に村人軒別に粱粢を苞にして上組下組二隊に分れこれを投げ合い勝敗を決す 世に粢軍と云はれる所以なり

祭神 大山祇命
境内社 若宮社 金山社
祭日 四月十七日
旧祭日 大祭礼十一月中の亥の日
小祭日 一月三月八月久十七日

山神社信徒総代

以下、注釈を記しておく。
御神体:五丈五尺はメートル法換算で約16.7m
帯縄 :帯の代りに腰に巻く縄。三十三尋は59.4m
お腰懸:一丈四尺は約4.2m
庭燎 :祭場で焚く篝火
穢火 :出産や死など穢れのあった家の火
粱粢 :粱は粟(あわ)。粢(しとぎ)は水に浸した生米をつき砕いて、種々の形に固めた食物。餅の原形

ところでこの神様は5階建てのマンションよりも大きいのである。昔の出雲大社の本殿でもなければとても入らない。加えて帯がおそろしく長い。人間の男性の場合は一般に身長の半分弱が胴囲とされるので、これに倣えばウェストが8mもある。五回半も巻いて帯を結ぶことになる。話が壮大に過ぎて笑ってしまう。

 

 

さらに進むと朽ちかけた木造の鳥居が迎えてくれた。思わず立ち止まってしまう。倒木をそのまま使ったプリミティブな鳥居でこの場の聖性を象徴するかのようだ。この先は一見に如かず。まず動画をご覧いただこう。

 

 

いかがだろうか。僕の知る限りこれに匹敵する聖地は少ない。得体の知れなさという意味では対馬の八丁郭(オソロシドコロ)を彷彿とさせる。拝殿には賽銭箱が埋め込まれてあり、その両脇に巨大な下駄、前には地元の銘酒七賢の五合瓶、櫻守や大関のワンカップなどがずらりと並んでいる。いずれもまだ手向けられたばかりの新しいもので氏子の信仰の篤さを思わせる。こちらの神様は酒好きなのだろうか。身の丈17mならこれでも足りないのかもしれない。

 

 

 

 

拝殿の先にお腰掛けが見える。回り込んで近くで観察する。非常に頑丈な造りだということがわかる。お腰掛けの中には葉を取り払った枝だけの細い木が立ててある。神籬だろうか。背後に銅製の奉納剣。脇には「山津神」と浮き彫りの銘のある鉄製の法剣。さらに拝殿の右に巨大な厚い板のようなものが裏返しに立て掛けてある。表を窺うとなんと巨大な天狗の面だった。だが肝心の鼻がない。

 

 

 

付近を探しても見当たらず、諦めかけた時に思い当たったのが参道左側にある建物だ。祭事や修繕に使う種々を保管する小屋だと思われるが、朱塗りの大きな木の棒が壁に懸けてあったのだ。不思議なものがあると思ったがこれが天狗の鼻だったのである。

 

 

天狗といえば修験道の神であり、高下駄や奉納された剣なども含め、現在の当社は修験道色の濃い神社と言えよう。甲斐駒ヶ岳の行者が来て祈祷を行っているとのことだが、甲斐駒ヶ岳は江戸時代後期の文化13年(1816)に信州諏訪郡上古田村(現長野県茅野市)出身の修験者、鐇弘法印(俗名小尾権三郎)が開いたものだ。当社と駒ヶ岳修験の縁ができた時代はかなり下るのではないか。では、元々はどのような神社だったのか。甲斐国志を紐解いてみるとなんと社名が「諏訪明神」だった。

諏訪明神 上今井村 社地百五十一坪無税地ナリ以上ミナ宇津谷村神主兼帯ス ◯山ノ神同村村南小物成山ノ中腹ニ在リ 社地方一町許林中地ヲ掃テ三方ニ樴(クイ)ヲ打チ圍ムニ三十三尋ノ縄ヲ以テシロヲ一方ニ開ク コレヲ御帯縄ト称ス 當中ニ高一丈方四尺ノ楥(サク)ヲ立ツ コレヲ御腰掛ト称ス 其左右ニ石ヲ立ツ コレヲ西ノ王子東ノ王子ト称ス 祭禮ハ十一月第二ノ亥ノ日ナリ 前夜神樂アリ 終夜庭燎ヲ焼ク 祭日未明ニ村民軒別ニ粱粢ヲ苞ニ〆コレヲ供シ帯縄ヲ張リ又別ニ粱粢ニ枚ヲ苞ニ〆人々コレヲ携ヘ村民悉ク會〆後上組下組ニ隊ニ分レ鼓譟〆相進ミ粢苞ヲ投擲〆勝敗を決ス コレヲ粢軍ト云 此ノ神殊ニ霊威嚴重〆古ヨリ婦人小子神地ニ至ル㕝(コト)ヲ得ス 尤不浄ヲ禁ス 又本村古ハ水ナカリシユエ祭主沐浴スルニ粟ヲ以テ水ニ代エコレヲ冠粟ト云 供御ノ菜大根モ塵ヲ拂ヒ粟稈(カラ)ヲ以テ土ヲ拭ヒ去ルノミ 西郡百々村神主 志田村神主 宇津谷村神主立合ニテ神事ヲ勤ム(文末に出典を記す)

内容は由緒が刻まれた碑とほぼ同じだが、昔は水利が悪く祭主の沐浴に使う水を粟で代用したくだりなどは民俗として面白いエピソードだ。だが、ここで見逃してならないのはここがかつては諏訪明神だったことだろう。やはり諏訪信仰とお腰掛けはどこかでつながっている可能性があるのだ。当社についてはこの辺で筆を措くが、他にもお腰掛けを有する神社が数社あり、中には旧社名がミシャグジだったところもある。続きは年末年始のどこかで投稿する積りだ。ご期待を乞う。

 

 

(2024年11月3日)

出典:「諏訪明神」甲斐国志 神社部三十三 国立国会図書館デジタルアーカイブ「甲斐国志34」 P8参照