犬鳴山七宝瀧寺:大阪府泉佐野市大木8

 

泉佐野市は父方の先祖が代々油問屋を営んでいた場所だ。南北朝の頃から商売をはじめ、畿内二府四県に行燈の油を供給していたという。いわゆる旧家で資産も相応にあったようだが、明治に入って嫡子が途絶え、養子縁組をして家をつないだ。この養子が僕の曾祖父にあたる。この人は商売にまったく関心のない文人肌で、昭和に入って家が傾きかけたと聞く。富岡鉄斎はじめ文人墨客が寄宿し、一宿一飯の義理で書画や骨董を残していったが、商売そっちのけで趣味にのめりこんでいたらしい。幕末前後に建てられたと思しき商家の黴臭い屋根裏や土蔵の中には、掛軸やら屏風やらお宝の類がたくさんしまってあった。学校が休みになるとこの家によく遊びに行ったが、ある時国文学の研究者だった叔父が帰省していて、犬鳴山に連れて行ってくれた。小学校一年生の夏休みのことで、もう半世紀以上も前になる。四月末に紀州北西部を訪れた帰りにふとこのことを思い出し、せっかく近くまで来たので足を延ばしてみることにした。

 

 

中腹の駐車場まで車で上っていく。そうそうこんな感じだった。渓流沿いの道の記憶がよみがえる。当時はタクシーで行ったのだ。曇天の暑い日だったが、上るにつれて涼しくなったことを覚えている。駐車場に車を停めて外に出ると水の気配が濃密だ。山内の案内板を見ると、八岳を擁する修験の一大行場だということがよくわかる。滝はもちろん、蟻の戸渡りや胎内くぐりに西の覗きと、山上にはかなり危ないところもありそうだ。

 

 

駐車場を出ると参道の鳥居が迎えてくれる。手前に観音堂と白長弁天社。すでに神仏習合の様相を色濃く感じる。というより、これが修験道そのものなのだ。仏教でも神道でもなく、それらすべてを併せ吞んだ混淆宗教であり、道教由来の呪術的側面も備えている。それがゆえに邪教扱いされ、明治五年には修験道禁止令が発布された。一説に50万人以上の修験者が還俗し、職を失ったとされるが、それでも今日まで永らえているのは、宗教以前のアニミズムに端を発する日本固有の信仰だからなのだろう。

 

 

参道をしばらく行くと、右手に広い護摩場がある。奥の護摩壇の前には倶利加羅大龍不動明王の大きな像が立ち、右に役小角像、左に弘法大師像が配されている。いずれも当寺の成立に関わるので、七宝瀧寺のホームページから縁起を引いておこう。

 

犬鳴山は、斉明天皇の7年(西暦661年)、修験道の開祖である役行者が28歳の時に開基されました。大和の大峰山より6年早く開山されたので、元山上と呼ばれます。役行者の開山時に倶利伽羅大龍不動明王が出現し、これを本尊としたと伝えられています。また、弘法大師もご修行になり、山内の七瀑に七福神をお祀りされたといわれています。それ以来、七宝瀧寺では国家安穏・五穀豊穣・諸人快楽の密法が修されています。霊山の中でも国内最古とされ、独自の進化をとげた犬鳴山。近年の研究では、修験道史の学術的な研究も進み、修験道発祥霊山としての裏付けもされつつあります。真言宗犬鳴派 大本山たる七宝瀧寺は、葛城和泉屈指の神仏集合霊場として現在に至っています。(出典*1)

 

大峰山よりも早く開山された修験道発祥の地とは知らなかった。このあたりの修験は葛城二十八宿修験と呼ばれ、和泉山脈から金剛山地にかけての葛城山系に多くの行場を持つ。二十八宿とは役小角が法華経八巻二十八品を埋納したとされる経塚のことだ。七宝瀧寺はその根本道場とされ、南の燈明ヶ岳山頂に第八番の経塚を擁する。

 

護摩場にはほかに熊野権現社や七福神を祀る堂があったが、本堂に向う鳥居をくぐり、上っていくと、ぼけ除け不動尊やら白髭一言稲荷大明神やらと、まるで一貫性のない神仏が居並んでいる。どこか伏見稲荷大社のお山のお塚を思わせる。もちろん聖地には違いないのだが、キッチュと言ってよいのか、ある種の俗臭が芬々としている。いろいろな信仰を吸い寄せる磁場のようなもので、それらがまたこの場に彩りを添え、さらなる混沌を生み出していく。日本の原宗教のありようは混淆と混沌にあるのかもしれない。


ぼけ除け不動尊

 

白髭一言稲荷大明神

 

本堂は犬鳴川沿いの崖上に建つ。川側に少しせり出した懸造りである。だからか中に入ると足元がなんとなく落ち着かない。内陣には前立本尊の昇龍倶利伽羅不動明王。その前に大きな護摩壇がある。と、突然護摩祈祷が始まった。座って眺めていると若い僧から見学不可とのことで追い出されてしまう。護摩行というものは本来は見学してはいけないものらしい。密教由来の秘法なのでこれは仕方のないことか。

 

 

 

七宝瀧寺というだけあって、山内には両界の瀧、塔の瀧、弁天の瀧、布引の瀧、固津喜の瀧、千手の瀧、行者の瀧の七瀧がある。すべては見て回れないので本堂を出てすぐの場所にある行者の瀧に向かう。川沿いに進むと急流の先に清瀧堂。ここにも護摩壇が設けられている。

 

 

 

 

堂の脇の役行者像を横目に滝の前の橋を渡る。10mと大した落差ではないのだが、存在感のある滝だ。訪れた日は水量が多いのか、轟轟とものすごい音を立てていた。近くに寄ろうとすると風圧も凄まじく、押し戻されそうになる。飛沫が全身に当たってパチパチと音を立て、暴風雨さながらだ。役行者も空海もここで修行したといい、事前に予約すれば瀧行を含む修行体験ができるらしいが、面白半分では滝壺に落ちて溺れてしまうかもしれない。修行体験の様子はテレビ大阪のニュースのURLをご覧いただきたい。(参考*2)

 

 

 

 

 

 

ここは平安時代から祈雨で有名な場所でもある。滝の前には清瀧堂があったが、下ったところには清滝大神と白滝大神が祀られていた。由緒を書いた立札にはこう書かれている。

 

清滝権現とも号し、元の名は善女龍王。八大龍王の一人沙渇羅龍王の三女です。嵯峨天皇の御宇、神泉苑にて気宇祈願護摩供のとき、空海は唐の長安の青龍寺の鎮守神善女龍王を勧請し、大成果を挙げました。以て空海は高尾の神護寺に鎮守神として清滝権現と号して勧請しています。聖宝理源大師も如意輪観音の化身と観て醍醐寺の鎮守神としています。


清滝大神と白滝大神

 

そう、結局この寺の本尊、あるいは神体は古くから「滝」そのものなのである。転じて龍神となり、不動明王と習合したのだろう。修験道は行場である山中の自然、たとえば樹木、岩、滝などと一体になることで身心を清浄且つ正常にし、一定の状態に保つ。僕はセルフコントロールの一技法だとも考えているのだが、滝に打たれることもそれが神であれ仏であれ、自然と一体になることなのだ。そうすることでマクロコスモスを知覚し、同時にミクロコスモスに目覚める。ここで詳しくは触れないが、これは大日如来をすべての根源とする空海の宇宙観、即ち密教によく似ているように思う。役行者ら優婆塞の修行法を密教をもって止揚したといえなくもないだろう。

 

関空から羽田への帰りの便は21時過ぎだった。まだ時間があったので冒頭に紹介した父方の実家を訪ねてみた。当時、この家は千坪以上ある敷地にあったが、地価高騰の折、サラリーマン二人、大学教授一人の三兄弟の収入では、とても固定資産税を賄えるものではなかった。これを減免するために老母の名義で十億円以上を借り入れ、霞が関から新宿に移転を控えた東京都庁の前に小さなビルを建て、ここに士業の面々の入居を目論んだ。だが、時はバブル崩壊の直前。すぐに地価は暴落し、この借金は倍以上に膨れ上がった。幾重にも抵当権が設定され、連帯保証人であった兄弟は返済に苦しむことになった。爾来三十年。二十数億にもなった借金はやがて不良債券として処理され、いまは金融機関の記録に残るのみである。実はこれを先導したのは三男の国文学者の叔父だった。経済や金融に疎い彼が、群がる闇の紳士たちに唆され、千金の夢を描いたという顛末である。祖母、兄弟三人が他界して幾星霜。人手に渡った旧家の趣は昔日のままだったが、居抜きで借りたと思われる着物業者の店に変わり、漆喰の土蔵の中からは小さな子どもたちを叱る母親の声が聞こえるばかりだった。

 

 

 

あの日叔父は犬鳴山で僕に何を見せようとしたのだろうか。

 

(2023年4月30日)

 

出典

*1真言宗犬鳴派大本山 犬鳴山七宝瀧寺 ホームページ  https://inunakisan.jp/

 

参考

「葛城修験(泉佐野市内)」一般社団法人泉佐野シティプロモーション推進協議会

【滝行】【山修行】女性たち。敢えて辛い修行に挑むわけとはー テレビ大阪ニュース YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=yXahsndI-H4