布引山釈尊寺:長野県小諸市大久保2250

 

「牛に引かれて善光寺参り」という説話はご存じの方も多いだろう。「《信心のない老婆が、さらしていた布を角にかけて走っていく牛を追いかけ、ついに善光寺に至り、のち厚く信仰したという話から》思ってもいなかったことや他人の誘いによって、よいほうに導かれることのたとえ。(デジタル大辞泉)」とのことで、初出は俳諧の専門書、世話尽(1656)らしいが、古くから知られた俚諺らしく、類似した中国の説話が今昔物語集に見えるという。この信心のない老婆が住んでいたのはこの寺のあたりだというが、善光寺までは平地を通っても56km、徒歩で半日近くかかる。牛は歩くと人並み、走ると時速20km以上らしいが、老婆が追いかけるのは無茶というものだろう。いやはや、ご苦労様なことである。

 

江戸時代は「一生に一度は善光寺参り」である。善光寺は一心に念仏を唱えて祈れば誰でも極楽浄土に導くとされ、貴賤を問わず救済を説く無宗派の寺で、女性の参拝者が多かったという。熊野詣でのようでもあるが、寺勢は参詣者の数に比例する。誰でも受け入れるという敷居の低さが人を呼んだのだろう。今も門前の仲見世通りは伊勢のおはらい町さながらの賑わいがあるし、宿坊も39を数える。聖地に赴くことは観光でもあるのだ。江戸から善光寺へは中山道の小田井宿から小諸に入り、千曲川沿いの道を上っていったと思われるが、この説話が途上の古刹、布引観音に事寄せられたのは、この行程を考えると頷けるものがある。

 

午前中は安曇野から大町あたりの古社を巡っていた。折からの寒波で轍を隠すほどの大雪だったが、上田のあたりまで来るとさっきまでの吹雪が嘘のように晴れていた。夕方にさしかかる頃、釈尊寺のある山の麓に着く。駐車場の前が登拝口だ。じつは二年前のゴールデンウィークに一度訪れたことがあって、その時はカーナビがなにを間違えたのか山の裏からの一本道を案内し、山頂近くの本堂の前に出てしまった。一度下ってまた登りなおすのも面倒なので、結局観音堂しか見ておらず、山の全容がわからないので再訪することにしたのだ。

 

渓谷沿いの参道はところどころに岩清水が湧いていた。陽が当たらないところは雪が凍っており、足元はよろしくない。滑らないように油断せずゆっくり登っていく。登るにつれて参道向かい側の巨巌の姿が顕になってくる。いやはやこれはすごいところだ。いかにも行場といった風景が続く。行者たちがあちこちの岩肌を攀じ登ったり、岩窟に籠っている様子が眼に浮かぶ。布引二段滝と称する小さな滝は凍って氷柱となり、その裏に水が流れていた。なんとも趣きの深い自然の造作で、絵師であれば描きたいところだ。「牛に引かれて」の説話に因む牛岩とか善光寺に通ずる穴などもあるのだが、さして興趣も湧かないので、代わりに巨岩の画像をいくつか載せておく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

不動滝のあたりまで登ると観音堂が見えてくる。さらに進むと右手に仁王堂。下からだとこの脇から仰ぎみるのがいい。岩壁からせりだすように立つそのさまは、凛としてとても美しい。懸造りの堂舎はあちこちでそれなりに見てきたが、この観音堂はロケーションもあってひときわの存在感がある。参道を登りきると本堂。これを横目にしながら岩壁を回り込むように観音堂に向かう。途中にいくつかある堂舎はすべて岩窟にくい込んでいる。人の手で掘ったと思われる隧道を抜けると観音堂だ。内陣には国の重要文化財、宮殿(くうでん)という厨子がある。観音堂は明治33年の再建だが、棟札には永正元年(1504年)に修覆とあり、これ以前から同型式の懸造りが存在したようだ。一方、内陣の宮殿は格子の先にあり、中が真っ暗でようすが窺いづらい。小諸市のホームページに画像があったので、貼付しておこう。この寺は度々戦災や野火に見舞われ、堂舎が消失しているが、宮殿は正嘉2年(1258年)の棟札と共に観音堂の岩屋内に安置されていたため、火災の難をまぬがれ、今日に至っているとあった。(出典*1)

 

 

 

 

 

 

釈尊寺は神亀元年(724年)、行基が創建したと伝えられる天台宗の寺院で、宮殿の本尊は聖徳太子がつくった聖観音とされる。寺伝なので真偽は図りかねるが、奈良時代からの修験道や平安時代の密教の広がり、この山のありようからすれば、行場として適地だったのだろう。では、この寺になぜ懸造の観音堂をつくったのか。資料をあたるとどうやら岩と水に関わりが深いようだ。懸造りの嚆矢といえば、石山寺、長谷寺、清水寺、東大寺二月堂などいずれも観音菩薩を祀る霊場である。これら寺院の内陣、本尊の立つ台座はいずれも岩盤だという。長年にわたって懸造りを調査、研究する建築家、松﨑照明氏はその著書で以下のように記している。

 

「これらの内陣部分は石山寺では厨子内部に珪灰石が隆起して本尊の台座になり、長谷寺の本尊は宝盤石(宝石)と呼ばれる岩上に立つ。清水寺と東大寺の二月堂の本尊は、現在では厨子に納められているが、清水寺の厨子を乗せる須弥壇の下には旧本尊を祀った土の壇が認められ、二月堂の本尊十一面観音は現在も岩盤上に直接立っている。つまり、四例とも創建当初の建物は、岩上(清水寺は土壇)の本尊を覆うように建てられたと推定でき、本尊の立つ岩と建物が密接な関係を持っていたことがわかる。(中略)このような創建建物(正堂)の前面に、石山寺、長谷寺では10世紀後半までに、清水寺では11世紀初頭以前に、東大寺二月堂でも平安時代のそう遅くない時期までに、切妻ないし入母屋造・平入かなりの規模の懸造礼堂が建立されたと推定されている。これら四寺のうち、清水寺、長谷寺、石山寺は、九世紀中葉以降、霊験寺院とか霊場などと呼ばれて、摂関家の貴族が盛んに参詣・参籠するようになった寺である」(出典*2)

 

要するに観音信仰のブームに伴って参詣者が増加し、堂舎の拡張に迫られたのだ。しかし、正堂の本尊と岩の仏座はセットである上、その多くは山腹の岩屋などに設けられ、動かすことが出来ない。したがって、懸造りという建築手法でやり繰りしたということらしい。水についてはどうだろうか。清水寺は縁起にも登場する音羽の滝、石山寺は閼伽井屋、東大寺二月堂はお水取り、長谷寺本堂には湧水はないが、初瀬川を挟んだ与喜山山中の奥の院、瀧藏社の存在や複数の高龗神社があるなど水と深い関わりがある。画像でご覧いただいたように、布引山も渓谷を挟む岩山で、ところどころに水が滲みだし、滝もある。そして本尊の聖観音は山頂近くの岩窟の中に安置されている。ここに懸造の観音堂があるのは至極もっともなことだったのだ。

 

 

最後に懸造り自体の視覚的、あるいは空間的効用に触れておきたい。これまで寺社の建築にはほとんど関心がなかったのだが、聖地を語る限り、建造物も避けて通れないテーマだということに最近気づいた。たとえば、近現代の新宗教の建築。度肝を抜かれるようなものが少なくないが、大きさにせよ、意匠にせよ、なぜこうしたものをつくるのか。自明のことだが、宗教的感情を呼び覚ますには五感に訴えるなんらかの仕掛けが必要で、とりわけ視覚に訴えることは常套なのである。これは洋の東西を問わず、あまねく宗教に共通することだろう。読者の皆さんの中にも宗教的空間で固まって動けなくなったり、魂を持っていかれそうになった経験のある人がいると思うが、宗教は(結果的に)それらの感覚を上手に扱っているように思える。視覚でいえば、聖地の立地はもちろん、鳥居や注連縄など結界をしめす諸々、建物なら懸造りの堂舎、三重塔や五重塔、巨大な伽藍、これらに施されるさまざまな意匠…と挙げればきりがない。その中でも大きなもの、高いもの、異形のもの、精巧なものなどに惹かれてやまぬ心性は人間に共通する。それらは最初は宗教的表徴として認識され、やがて人口に膾炙すると祈りを離れて観光の目的となっていくのである。

 

あらためて本堂の前から観音堂を眺めてみる。それはまるで御本尊の立ち姿のようでもあり、じつに美しかった。
(2022年2月6日)
 

出典

*1 釈尊寺観音堂宮殿 小諸市ホームページ https://www.city.komoro.lg.jp/soshikikarasagasu/kyoikuiinkaijimukyoku/bunkazai_shogaigakushuka/2/1/1/bunkazai/kunisitei/719.html

*2 松﨑照明「山に立つ神と仏-柱立てと懸造の心性史-」講談社 2020年

 

参考

北村孝一「ことわざの世界(22)牛に引かれて善光寺参り」  https://www.chikyukotobamura.org/muse/life100518.html

五十嵐太郎「新宗教と巨大建築」講談社現代新書 2001年