櫃石:群馬県前橋市三代沢町
赤城神社:群馬県前橋市三代沢町114
櫃石は神道考古学を提唱した大場磐雄氏の著書「まつり」の表紙の写真で知った。かれこれ50年以上前の本だ。内容はもちろんのことだが、それよりも表紙に目が釘付けになった。セピア色の写真の櫃石はまるで生きもの、いや妖怪のようで、これが僕を巨石の虜にした。それ以来、聖地への旅の折々で磐座や巨石を祀る場所を訪ねるようになった。ところが肝心の櫃石とはなかなか縁に恵まれず、昨年末にようやく対面することが出来たのである。櫃石は赤城山の山腹にあり、南麓の三代沢赤城神社の境内から向かう。赤城山頂は折からの寒波で数日前から降雪していた。雪の山歩きには心得がなく、いささか不安がある。登山道は整備されているとのことだが、アイゼンとゲーターを持参して臨むことにした。
翌朝早くに伊香保温泉を出る。よく晴れていて遠望する赤城山に雪はないようだ。瀧沢石器時代遺跡に寄ってから三代沢の赤城神社を目指す。赤城神社は延喜式では貫前神社、伊加保神社とともに上野国の名神大社に列し、大己貴命と豊城入彦命(トヨキイリヒコノミコト)を祀る。日本書紀によれば、豊城入彦命は崇神天皇の第一皇子で、天皇の命によって東国の統治に派遣され、当地の経営にあたった。なんでも三輪山(御諸山)の山頂で東を向いて槍を突いたり、刀を振り回していたので、東国を治めるのによいだろうとされたらしい。上毛野氏(カミツケヌウジ)、下毛野氏(シモツケヌウジ)の祖神にあたると伝わる。大和からやってきた彼らが奉じたのが赤城山である。
赤城神社にはここ三代沢の他に論社が二社ある。ひとつが山頂の大洞赤城神社、もうひとつが前橋の二宮赤城神社だ。江戸寛政期には大洞と三代沢の間で本社争いが起きたり、三代沢も明治以前は東西二社あったとか、元三代沢は山頂近くの小沼にあったとか、当初の信仰は里宮から発しており、本源は二宮ではないかとする説など、諸説入り乱れて未だ確定を見ないようだ。また、三代沢赤城神社は現代の神隠し、迷宮入り失踪事件の現場でもあるのだが、本稿とは関係ない話なのでここでは触れない。ご関心の向きはネットで検索されたし。
大洞赤城神社(上:旧社地 、下:現拝殿)
二宮赤城神社
三代沢赤城神社
参拝者のいない境内は杉の巨木が林立し、深閑としていた。空気は研ぎ澄まされている。本殿とか、たわら杉とか見るものはそれなりにあるのだが、それはさて措こう。参拝を済ませて早速櫃石へ向かうことにする。社殿向かって右に「県史跡櫃石 →2.1km」の看板が立つ。杉木立の中に山に登る道が続くが、ほんの少し登るとすぐに平坦になり、しばらく行くとオートキャンプ場の脇に出た。なにか興趣を削がれたような気になる。僕はオートキャンプとかグランピングいう行為がどうにも好きになれない。決められた区画にお金を払って車を乗り入れるのもなんだかなぁと思うし、便利で快適だからといってベッドにエアコン、冷蔵庫付きのテントにわざわざ泊らなくてもよいではないかと思うのである。
閑話休題。車の脇で昼食の支度をしている人たちを横目に登山道に入っていく。傾斜は緩やかで道は整備されており、非常に歩きやすい。標識もところどころにあるので迷うこともない。高原ハイキングといった趣きだ。霜柱を踏む感触、音が耳に心地よい。鳥のさえずり。スズメ大の鳥たちの群れが樹々の間を飛び交っている。アオジだろうか。ウソやアカゲラなど、ここにはさまざまな野鳥がいるようだ。その数60種とも。おっと、リスだろうか。しっぽの長い動物が眼前をすばやく横切っていく。シカ、アナグマ、キツネ、タヌキ、テンと動物もたくさんいるらしい。尾根道は緩やかに続いていくが、最後の300m程度で傾斜がきつくなる。登りきるとそこは平坦に開けていた。けっこうな広さだ。大きく「櫃石」と記された石標が見える。奥になにやら気配がある。櫃石だ。
息をしているように見える。やはりただならない存在感だ。高さは2.5m、周囲12.2mと思いのほか大きい。正面から見るとまるでモスラの幼虫のようでもある。柵が巡らされていたが、中に入れたのでぐるりと周囲を回ってみる。期待しただけのことはある。磐座は数百見てきたが、ロケーションを含めてほぼ僕の理想形でうれしくなってしまう。六世紀中頃の祭祀遺跡とされているが、その由来を前述の大場磐雄氏が記しているので少し長くなるが引用しておく。
「ところで注目すべきことは、この石の南側、つまり麓に向った方の下部が少し窪んで傾斜しているが、その下から多くの祭祀遺物が出土したというのである。私たちも土器を拾ったが、下山して赤城神社に立ち寄り、この神社の神主や県内有志の採集した品を見ると、どれも櫃石の下部またはその附近の土中から出土したことがあきらかとなった。この石に注目した人はかなり早くからあって、江戸時代天命六年に、奈佐勝勝皋(なさかつたか)は「山吹日記」の中に触れていて、ここは三諸別王が天神地祇ををまつったところで、天平瓮(あめのひらか 注)の埋納所を櫃石といい「今もその所をほればさる形したる物なん出る」と書いている。つぎに寛政十年伊勢崎藩士の関重嶷の「古器図説」には、赤城神社発見の土器と臼玉とを図示し、土器は天手抉(あまのたくじり 注)であって、ここが古代の祭場だと考証している。(中略)一説には棺石とか斎石だとする人もあるが、古墳でないことは明瞭であるから、棺石ではなく、斎石説も後世の学者が考えた附会説に過ぎないから、おそらくその形状が櫃に似ているところからつけられたものであろう。ただ、面白いことはその形が革籠(かわご)に似ており、神籠石(こうごいし)との関連も考えられ、さらに古来この石には触れると祟があると信じられた民俗を合わせ考えると、霊質を持った石とみられたことには疑があるまい。櫃とか筥には中に物を籠めるものであるから、神霊の籠る石の意味がおのずからこの名称にしめされているといってよいであろう。」(出典*1)
ここでいう三諸訳王(御諸訳王 みもろわけのおう)は、豊城入彦命の曾孫、彦狭島王の子で、毛野氏の祖先とされる。日本書紀の記述とは異なり、豊城入彦命は実際には東国には至らず、孫の彦狭島王も赴任途上で没しており、御諸別王が当地を治めた最初の人物になるようだ。実在したとすれば、弥生時代末から古墳時代にかけてのことだ。櫃石付近からの出土遺物はいずれも六世紀頃のものというが、この自然石が神聖視されたのはそれよりもずっと古くからのことで、当地の人々が神観念、つまり宗教をもちはじめた頃にまで遡ると思われる。
僕にとっての問題は、古代人はなぜ自然石を見て畏怖したのか、或いは現代においてもいまだ石に魅せられる人々が数多いるのか、ということだ。それは「なぜそこに聖地があるのか」ということにつながってくる。このことについては残念ながらいまだ仮説にすら出会ったことがない。自ら考えていくしかないのだろう。研究領域に自然信仰を含む学問には、宗教学、歴史学、考古学、民俗学、文化人類学などあるが、これら学問で学際的なアプローチをとっても答えは出てこないように思う。自然科学が必要なのかもしれない。それは石に限らない。海、山、森、巨樹、滝、洞窟・・・など、自然の妙を見た時に人間の誰にも湧き上がってくる心象、これによってもたらされる宗教的感情のメカニズム、こうしたことを解明したいのである。それは「生」或いは「死」と密接につながっているように思う。
櫃石を後にして下山する。もう少し山中を歩きまわれば、なにか発見があるかもしれない。次に来るときは新緑か紅葉の時期にしよう。近くには滝沢温泉という秘湯もある。とれたての山菜、きのこ、川魚で一杯やるのが楽しみだ。
(2021年12月29日)
注
天平瓮(あめのひらか)、天手抉(あめのたくじり)
ともに呪具の一つ。平瓮は土製の皿、手抉は手で土を抉って作った器で、丸めた土の真ん中を指先で穴をあけるように窪めて造る。日本書紀巻第三、神武天皇 即位前紀 戌午年九月の条には以下の記述がある。
「夢に天神有して訓へまつりて曰はく、『天香山の社の中の土を取りて、天平瓮八十枚を造り、
并せて厳瓮(いつへ。神酒を入れる聖なる瓶)を造りて、天神地祇を敬い祭れ。亦厳呪詛をせよ。
如此せば、虜自からに平き伏ひなむ』」
「是に、天皇、甚に悦びたまひて、乃ち此埴を以って、八十平瓮、天手抉八十枚、厳瓮を造作りて、丹生の川上に陟りて、用て天神地祇を祭りたまふ」
出典
*1 大場磐雄「まつり」学生社 1970年
参考
田島桂男「赤城神社」谷川健一編『日本の神々−神社と聖地- 第11巻 関東』白水社 1984年
「日本書紀」岩波文庫 2015年
参考)
NHK さわやか自然百景 選「冬 赤城山」