大宝寺 :愛媛県上浮穴郡久万高原町菅生2−1173−2
古岩屋 :愛媛県上浮穴郡久万高原町直瀬
岩屋寺 :愛媛県上浮穴郡久万高原町七鳥1468
御三戸嶽:愛媛県上浮穴郡久万高原町仕出
面河渓 :愛媛県上浮穴郡久万高原町若山
遍路というものにあまり関心がなかったこともあり、これまで四国の聖地とは疎遠だった。だが、熊野古道への関心から辺路について調べていくうちに、四国八十八ヶ所の遍路は”辺路(へち、へじ)”のことを指しており、かつては修験者の道だったということがわかってきた。たしかに田辺の闘鶏神社から那智の補陀落山寺に至る熊野古道大辺路は海沿いを歩き、難所を越えていく道であり、まさしく海の熊野、海の修験なのである。仏教民俗学の泰斗、五来重によれば、辺路は「海と陸との境目を歩くという一つの修行形態」のことで、四国の辺路も弘法大師空海より古い時代からあったものだとしている。空海もまた先達にならってこの道を歩き、海のかなたを拝しながら修行に勤しんだのだ。
四国といっても広い。遍路をするわけではないので辺路の痕跡を求めてつまみ食いするしかない。はたしてどこから手をつけたものかと思案していたところ、三十年来の酒友でもある大先輩と久々に尾道で一献傾けることとなった。とすると伊予のどこかになる。ここで思い出したのが一遍、そう岩屋寺だ。一遍聖絵は数年前に江ノ島に近い清浄光寺(遊行寺)の宝物館でお目にかかったことがあるが、菅生の岩屋にかかる梯子を登る一遍を見て一度訪れてみたいと思っていたのだ。
一献どころではなく、いつの間にやらハシゴ酒になってしまい、翌朝は二日酔いでぼーっとしていたが、酔い覚ましに千光寺で巨石を見物し、しまなみ街道に向かった。途中、大三島に寄って大山祇神社を参拝したのちに今治から南下する。気づくと久万高原の町中。このあたりでも標高500m程度あるらしいがそんなに上った感はない。そうこうする内に第四十四番の札所、大宝寺に着いた。駐車場にはほかに車が二台。日曜日の夕方とあってお遍路さんはもう宿に向かっているのだろうか。
大宝寺をあとにして今夜の宿、古岩屋という景勝地の前にある国民宿舎をめざす。岩屋寺の近くで温泉宿を探したらここしかなく、さして期待もしていなかったが、到着して宿の向かいを見て驚いた。一遍聖絵の菅生の岩屋そのままではないか。あの画そのものには誇張があるにせよ、岩の巨塊が連なる様子は実景そのままである。しかもいまが盛りの紅葉に彩られていて、これを部屋から眺められるのだ。なんという贅沢だろう。
翌朝早くに岩屋寺へ赴いた。石柱門、山門を経て、本堂まで山道を上っていく。途中、無念にも行き倒れた行人の墓石群や奉納された夥しい石仏などがあり、この寺への信仰の厚みを感じる。
数人のお遍路さんと行き合う。15分ほど緩やかな参道を登り、そろそろ本堂かと見上げてみると、巨大な岩壁が目に飛び込んできた。寺号ならではの迫力だ。かつては大宝寺の奥の院であり、この岩山そのものが本尊とされていたというがそれも頷ける。この岩壁直下に懸け造りの本堂が建っており、下から見上げると紅葉とのコントラストが実に美しい。手を合わせ、真言を唱えてみる。「のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん」。不動明王に邪悪の粉砕を願う真言ということは承知しているが、いつものようにノーマクサーマンダーまでで、あとはフニャフニャと誤魔化してしまう。
岩壁にはいくつかの崫があり、一番下の崫には本堂の脇から梯子が懸けてあったので上ってみる。高さにしておよそ5m、15段ほどしかなく、鎖場やら梯子の覚えは少々ある身だが、下を見てしまうと結構恐い。ゆっくりゆっくり上って、這うようにして崫の中へと滑り込んだ。
秋の陽光の中、山中に朝霧が漂い、紅葉が彩りを添える。胸いっぱい空気を吸い込む。とてもいい気分だ。空海はこの地で「山高き谷の朝霧海に似て松吹く風を波にたとえむ」という歌を詠み、それが海岸山という山号につながったという。事実かどうかはともかく、いま僕が立っている崫からの景色はこの歌さながらである。この崫、空海が訪れる前にこの地で修行した法華仙人の名前を冠してある。法華仙人は女性の修験者で、のちに訪れた空海に帰依し、全山を譲ったという。元々奥の院であり、明治までは常住がいなかったことから考えても、ここは寺というよりも行場そのものだったのだろう。
大師堂を参拝。昭和に建造された重文だというが、さほど興味が湧かないのでスルーする。向かって左には仁王門があり、続く山道から先が禅定への道、結界となっている。ここまでが金剛界、ここから先が胎蔵界だという。大抵のお遍路さんはここまでだが、本来の辺路は目的とした寺に到着したあと、その地で行道を行うのが常であったようだ。今は納経所で三百円ほど志を納めてから、三十六童子を巡りながらお札を奉納し、概ね一時間で逼割禅定(せりわりぜんじょう)の入口へと赴くことができるそうだが、現在は梯子が腐食していて危ないので登拝は禁じられている。岩の間を手足だけで登るようで、アルパインクライミングの心得も要しそうだ。こちらはそこまでして山頂の白山権現を拝する気はなく、時間もないので少しばかり山の中を歩いてみた。さすがにお遍路さんはいない。ひとり当て所なく山道を行くうちにまた崫らしきものを見つけた。足場がないが、えいやと上ってみると賽銭箱と宝塔。かつてはこの崫にも参籠した行者がいたのだろう。この山を丹念に回ればこうした忘れられた崫がまだまだありそうだ。奥の深さを感じつつ、このあたりで下山することにした。
岩屋寺をあとにして、旧石器〜縄文草創期の上黒岩岩陰遺跡、面河川の川中にそびえる御三戸嶽(みみどだけ)を見物する。熊野の古座川上流ではないかと錯覚するような風景だ。巨大な奇岩、怪石がひしめき、僕のようなアニミズム命の輩にとっては堪らない場所である。「辺路」と「遍路」の意味合いの違いもなんとなくわかってきた。辺路の道はこの世とあの世の境とのことだが、ここにはそれと感じさせる空間が広がっている。行人はその境目に落ちないように歩かなければならないのだろう。岩屋寺のあたりは熊野でいえば中辺路に当たるのである。
さらに山道をゆく。石鎚スカイラインの入口で鳥居が迎える。もうここは石鎚山の南麓なのだ。上方を仰ぐと石鎚の山頂付近はすでに薄く雪を冠していた。すでに紅葉の時期は終わっていたが、駐車場はいっぱいである。なんとか車をおいて、面河渓を散策する。仁淀ブルーで知られる高知の仁淀川源流にあたり、エメラルドに輝く澄んだ水面は早瀬でさんざめいている。
はたして空海はここを訪れたのだろうか。若き空海が記した「三教指帰」の下巻には「或跨石峯 以絶粮轗軻」(或いは石峯に跨って、以って粮を絶って轗軻たり)とあり、「聾瞽指帰」では空海自らが石峯を「伊志都知能太気」(いしづちのたけ)と注している。五来重は、空海は間違いなく岩屋寺で修行し、ここから石鎚山に登ったのだという。石鎚山南麓の面河渓から登ると緩い登りで、下る方に北側の急な鎖禅定があるので、岩屋寺から登る方がむしろ自然だとする。石鎚山に登ると海が見える。そこにいたる過程が海の修行、辺路の修行であり、あくまでも海のかなたの常世を信仰したのが辺路修行ということらしい。面河渓の本流ルートを歩いていて、石鎚山の裏参道の登山口を見つけたが、いまここから登る人は少ないらしい。次に訪れる時は岩屋寺の逼割禅定に挑戦して、ここから石鎚山の頂を目指してみようか。
(2021年11月15日)
参考
五来重「四国遍路の寺(上)」角川書店 1996年
福永光司訳 空海「三教指帰ほか」中央公論新社 2002年