出石神社:兵庫県豊岡市出石町宮内99

 

豊岡といってます思い浮かぶのは、城崎温泉、そしてコウノトリだ。豊岡にはコウノトリの繁殖と野生復帰を行う県立の研究機関があり、コウノトリの郷公園として一般にも公開されている。最後まで野生種が確認されていたのが当地で、出石藩がコウノトリを霊鳥として保護していたことが理由のひとつという。なにしろ、この地には垂仁紀のコウノトリ伝説を伝える久々比神社(式内小社)まであるのだ。
現在、日本で野外に生息するコウノトリは200羽を超え、兵庫県はもとより、近隣の京都、福井、鳥取、島根、そして徳島、千葉、栃木でも確認されている。まさか野外で観察できるとは思っておらず、地元の人に「運がいい」と言われたが、但馬空港から南下していくと、上空に羽ばたいていたり、田畑の畔で餌をついばむ姿を見ることができたのだった。

コウノトリは本来渡り鳥である。中国とロシアの国境あたりを流れるアムール川中流域で繁殖し、中国の揚子江中流域や韓国、台湾などで越冬する。かつては日本にも多くのコウノトリが渡ってきたが、やがて日本に留まり、いつのまにか留鳥のようになっていたという。

 

渡り鳥ではないが、古代には朝鮮半島の政情不安からたいへん多くの人々が波状的に日本に渡ってきた。彼らは鍛冶や馬飼などの技術をもたらし、いくつかの土地を移動しながらやがて定住するに至っている。古代史によく目を凝らすと、渡来民による補助線が張り巡らされていて、彼らが日本に将来した文化影響がことのほか大きいことに気づく。その代表はアメノヒボコ(日本書紀は天日槍、古事記は天之日矛と記載)といってよいだろう。豊岡市内にはアメノヒボコに連なる神社が十社以上ある。ここでとりあげる出石神社もアメノヒボコを祀り、延喜式内名神大社、但馬国一宮として夙に知られている。まずは由緒を参照しておこう。
 

出石神社は、天日槍命(あめのひぼこのみこと)が新羅の国よりお持ちになりました八種の神宝を出石八前大神(いずしやまえのおおかみ)として、また天日槍命の大御霊を御祭神として斎祀しています。天日槍命は、古事記、日本書紀とともに新羅国王の王子であり、日本に渡来されたとし、その事蹟は記紀のほか古語拾遺、播磨国風土記等にうかがうことができます。八種の神宝とは、古事記には珠二貫(たまふたつら)・振浪比礼(なみふるひれ)・切浪比礼(なみきるひれ)・振風比礼(かぜふるひれ)・切風比礼(かぜきるひれ)・奥津鏡(おきつかがみ)・辺津鏡(へつかがみ)と記しています。天日槍命のご子孫には、田道間守命(たじまもりのみこと)や神功皇后があります。神社の創立年代はあきらかではありませんが、社伝の一宮縁起には、谿羽道主命(たにはみちのぬしのみこと)と多遅麻比那良岐(たじまひならき)と相謀り、天日槍命を祀ったと伝え、諸書によりますと、およそ千三百年前にはこの地で祭祀がおこなわれていたことがうかがわれます。(後略)

 

由緒を記した案内板には和文の横にハングルの翻訳が記されていて、英語や中国語がないところがおもしろい。ここには韓国人の観光客も多く訪れるのだろうか。

 

 

一の鳥居をくぐり、南の参道を行く。まもなく二の鳥居と神門。神門の左には、平安期の鳥居の元口が一対。往時(千年以上前か)の二の鳥居の遺物で、昭和八年に当社の西方を流れる出石川を渡ったあたりから出土したとある。その地はいまも東西を走る旧参道上にあって、地名は出石町鳥居である。

 

 

 

 

社殿で参拝を済ませ、境内の東側に向かう。以前から注目していたのは、天日槍の廟と伝わる禁足地だ。古社は古墳となんらかの関係を持つところが多く、古墳の上に社殿を構えているところもある。但馬国二宮の粟鹿神社でも社殿背後に小山があり、社務所のご婦人に尋ねてみると、案の定当地を治めていた豪族の首長の古墳だった。円墳には盗掘の跡だろうか穴が開いていて石で塞がれていた。

 

 

粟鹿神社社殿背後の古墳

 

出石神社拝殿

出石神社本殿
 

 

 

 

 

玉垣で囲われた森には禁足地と記された札が立てかけられている。方形で、広さは約六百坪あるといい、巨樹が思い思いに枝葉を伸ばしている。京都下鴨社の糺の森に雰囲気は似ている。かつて京都大学から発掘調査の依頼があったらしいが神域ゆえ断ったとの由。禁足地の真ん中あたりは少し盛り上がっていて、なんとなく古墳のようにも見えるが、実際のところはどうなのだろう。少し考察してみよう。

 

 

ひとつの手がかりは社殿の向く方角だ。現在の社殿は南面しており、参道も南北に通っている。旧二の鳥居のことを述べたが、この場所を地図で俯瞰すると西から東に一直線に延びる旧参道の跡がはっきりとわかる。一般に社殿は参道に正面するように建つので、元々は西を向いていた筈である。因みに旧二の鳥居の先の出石町片間には旧一の鳥居があり、さらにその先には但馬国府があった。ここから禁足地は、当時西面したであろう社殿の背後にあたることがわかる。つまり、本殿に相当する場所で、古くは神を下ろした神籬だったといえる。

 

巷間、天日槍の廟所と伝えられるが、由緒を読む限りは神宝が主で天日槍は従であり、神宝が埋められている可能性を考えた方がよいだろう。これら神宝は、日本書紀 垂仁天皇八十八年の条に、天日槍の曾孫の清彦が天皇の求めに応じて自らが携えて献上し、石上神宮(神庫)に収められたとされている。(注*1)

 

石上神宮には、出石神社に同じく拝殿南側に禁足地があり、現在でも「布留社」と刻字した剣先状の石製の瑞垣に囲まれている。明治七年にはここから七支刀はじめ各種の宝物が発掘されており、御神体が鎮まる霊域として石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)、御本地(ごほんち)、神籬(ひもろぎ)などと称され、やはり古くはここで祭祀が営まれていたようだ。

石上神宮の禁足地(公式ホームページより)

 

石上神宮の十種神宝は以下のとおりだ。

沖津鏡(おきつかがみ)・辺津鏡(へつかがみ)・八握剣(やつかのつるぎ)・生玉(いくたま)・死返玉(まかるかへしのたま)・足玉(たるたま)・道返玉(ちかへしのたま)・蛇比礼(おろちのひれ)・蜂比礼(はちのひれ)・品物之比礼(くさぐさのもののひれ)

 

玉、鏡、比礼などその構成は古事記の記述と類似しており、出石の神宝が石上神宮の十種神宝の一部を為したのではないかとする論考もある。ことの真偽は掘りかえしてみなければわからないが、出石神社の禁足地も石上神宮に同じく当時呪物とされた種々を埋めて、奉斎していたことは想像に難くない。

 

さて、天日槍である。渡来人でこれほど記紀や風土記などに事跡が記された人物はいないだろう。これは実在した一個人というよりも、都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)も含め、朝鮮半島南部から渡来した集団の持つ伝説が習合した象徴的人物像と見る向きが一般的のようだ。個々のエピソードは記紀ならびに播磨国風土記などに譲るが、天日槍ら渡来人のもたらした文化や技術は刮目すべきものであった筈で、倭国は彼らを上手に泳がせて利用したのだろう。邇邇芸命の天孫降臨神話ですら、四、五世紀の応神朝前後の政治的揺らぎに際し、王権に「天」という絶対性を与えるために、敢えて敵国であった高句麗に由来する首露(スロ、伽耶)の建国神話を取り入れたのである。(参考 *2)

 

筆者は大学で国文学を専攻したが、四十年近く前に書いた卒業論文は森鴎外の「諸国物語」だった。当時の先鋭的な海外の中・短編小説を鴎外自らが翻訳、編纂したもので、芥川龍之介ら大正、昭和初めの作家は少なからず影響を受けている。書いた論文そのものはひどい出来で、いまでも恥ずかしくなるのだが、その中でひとつ提起したことがある。それは日本の文化の中心、核には実はなにもなく、空洞なのではないかということだ。日本は、よりすぐれた外来の思想や文物を吸収してその空洞を満たし、換骨奪胎して我が物としてきたのである。それこそが文化なのかもしれないが、独自のものを生み出すよりも、先進的な外来文化をいちはやく取り入れ、それを応用し、発展させていくことに特質があるように思えるのだ。後に知ったが、ユング心理学の河合隼雄は、古事記を分析し、日本神話における「中空均衡構造」を抽出している。

 

 日本神話の構造の特徴は、中心に無為の神が存在し、その他の神々は部分的な対立や葛藤を互いに感じあいつつも、調和的な全体性を形成しているということである。それは中心 にある力や原理によって統合されているのではなく、全体の均衡がうまくとれているので ある。そこにあるのは論理的整合性ではなく、美的な調和感覚なのである。これを日本神 話(特に『古事記』)の「中空均衡構造」と筆者は呼んでいる。

(そして、ユダヤ・キリスト教のような一神教における中心統合構造との比較において)

 これに対して、中空均衡構造の場合は、新しいものに対して、まず「受けいれる」ことから始める。これは、中心統合構造の場合、まず「対立」から始まるのとは著しい差を示している。まず受けいれたものは、もちろんそれまでの内容とは異質であるので、当初はギクシャクするのだが、時間の経過と共に、全体的調和のなかに組みこまれる。外から来る新しいものの優位性が極めて高いときは、中空の中心にそれが侵入してくる感じがある。そのときは、その新しい中心によって全体が統合されるのではないか、というほどの様相を呈するが、時と共に、その中心は周囲の中に調和的に吸収されてゆき、中心は空にかえるのである。これが中空均衡構造の変化、あるいは進化のあり様なのである。(出典*1)

 

僕たちは、半島や大陸との関係における歴史観、日本という国の国家観をいま一度振り返っておいた方がよいかもしれない。渡来人の残した足跡を訪れるたびに強くそう思うのである。

 

(2019年5月31日)

 

(注)

*1 古事記に献納の事実は記されていない。また、神宝の種類も数も日本書紀とは異なる。

(出典)

*1 河合隼雄「神話と日本人の心」岩波現代文庫 2016年

(参考)

*1 岡谷公二「神社の起源と古代朝鮮」平凡社新書 2014年

*2 川村湊「海峡を越えた神々-アメノヒボコとヒメコソの神を追って-」河出書房新社 2013年

*3 瀬戸谷皓「出石神社」日本の神々-神社と聖地-第七巻 白水社 1985年 *4 吉村武彦・吉川真司・川尻秋生編「渡来系移住民-半島・大陸との往来-」岩波書店 2020年

*5 「古事記」岩波文庫 2001年

*6 「日本書紀(二)」岩波文庫 2012年