佐太神社:島根県松江市鹿島町佐陀宮内73
佐太神社は「加賀の潜戸」で生まれたとされる佐太大神(佐太御子神)および伊邪那美命を主祭神とする出雲国二宮で、かつては秋鹿、島根の両郡に七千石の土地、神人二百二十四人を擁し、杵築(出雲)大社に次ぐ大きな教権を有した古社であった。現在も神在祭や御座替祭、佐陀神能など祭祀や芸能において古風をとどめている。
当社を訪れるのはこれで三度目だ。出雲の古社はどこも当地ならではの趣きがあるが、当社はなかでも思い入れがある。はじめて訪れた時には扇の神紋が気になり、社務所に詰めていた年配の女性に尋ねてみたのだが、そんなことあたしに聞くなと言わんばかりの素っ気ない応対で、こちらが能に関係するのかと問うと曖昧に頷くばかりだった。そうなると余計に知りたくなるのがこちらの性分である。二度目は背後の三笠山にある母儀人基社(はぎのひともとしゃ)を目当てに訪れたが、ちょうどこの日は神在祭の中日で、普段は人影のない参道にはたくさんの露店が立ち並び、参拝客でごった返していて、結局母儀人基社には入れずじまいだった。
それから早や四年が経った。この間、佐太神社のことは忘れていたが、昨年末に沖縄中部のクバの御嶽を訪れた際に、クバ(ビロウ)が扇の原型であり、これを模した扇が佐太神社にあったことを思い出したのである。
さらに、今年三月末に伊勢松坂の阿坂神社で猿田彦の出自に関心が至り、これらを調べていく過程で猿田彦の"サルタ"は古い沖縄の言葉の"サダ"が転訛したものだと知った。一方、佐太神社の公式ホームページには佐太大神は猿田彦神と同神と記載されていて、出雲と伊勢の関係を含めてもう少し探ってみたいと思ったのだ。ここでは佐太神社の全容を詳らかにすることはしないが、先行研究に基づいて、南方及び海との関わりについて紹介したい。
まずは境内をひと回りしてみよう。社殿は背後の山の麓に大社造りの中殿、北殿、南殿の三棟が東を向いて並び、それぞれ扇、輪違、二重亀甲と異なる神紋が施されている。神社建築にはあまり関心が向かないが、三殿構えの社殿は大らかで落ち着いており、そのさまはいつ見ても気持ちがいい。中殿には佐太大神、伊弉諾尊、伊弉冉尊、速玉男命、事解男命、北殿には天照大神と瓊々杵尊、南殿には素盞嗚尊と秘説四柱の計十三柱を祀っている。
この三殿の配置や十三柱にものぼる祭神は、平安時代の末に成立したようだ。当社は出雲国風土記に「佐陀の御子の社」と記されるのみだが、記紀の国譲り神話に見る大和、そして後の伊勢、熊野の介入によって、こうした形になったのだろう。そういえば、三殿の配置は熊野、とくに本宮を彷彿とさせるものだし、速玉男命、事解男命は日本書紀のイザナギ、イザナミの黄泉の国のくだりの一書に登場する神々である。
社殿も祭事も十分に古風をとどめているが、ここにはさらに古い祀りを行っていたと思しき場所がある。それが母儀人基社だ。南末社の脇に背後の山の中腹に向かう参道がある。少し登ったところに現れたのは、注連縄と縁石で囲われた磐境だった。二本の樹の間に七、八個の苔生した岩が折り重なっている。結界がなければ見過ごしてしまいそうな小さな磐境だ。
昭和初期の母儀人基社(佐太神社フェイスブックページより)
さて、佐太神社の北末社にはその名も”宇多紀神社”が祀られている。しかも、社頭の境内図を見ると参道向かって左側に”宇多紀神社跡”なる場所まであるのだ。これは帰京してから知ったが、同じ境内にある母儀人基社が関係のない筈はなく、この祭場の原型はやはり御嶽なのかもしれないと心躍らせた。
吉野裕子は著書「扇」で佐太神社の扇について触れているが、宇多紀神社についても話が及んでいる。
出雲には『延喜式』記載の古社で「タキ」の名をもつ神社が多い。
多気神社 秋鹿郡
宇多紀神社 秋鹿郡
意多伎神社 意宇郡
多久神社 楯縫郡
多伎神社 神門郡
多伎芸神社 神門郡
これらが沖縄の御嶽と相通ずるものであるということは鳥越教授の『琉球宗教史の研究』のなかで指摘されている。そうしてこのなかにみえる宇多紀神社がほかならぬこの佐太神社の境内、桜並木の参道の左側、老松のたっているところにあったということは本当に面白い。(出典*1)
南方、海との関わりはまだある。それは海蛇にまつわる神事だ。谷川健一はこう記す。
神能「佐陀」にも竜神や美蛇の話が出てくるが、これは竜宮の使いで、毎年時をたがえずに、尺余の竜蛇がこの神在の浜(佐陀浦)に波の間からすがたをあらわすと信じられてきた。(中略)十一月二十日から二十五日までの神在祭には神職は佐太神社から二キロはなれた山上で船の形をつくり、それを海にむかって送り出す儀式をする。旧の四月三日にも 神池で舟出の式をおこなった。これをみれば、この神社が誕生時の海とのつながりを濃厚にもちつづけていることがわかる。そして火難水難のまじないとなる竜蛇の形は、背黒く腹黄にしていわゆる天地玄黄の相をあらわし、長さ二、三寸から尺六、七寸に及ぶものもあり、尾は剣先形で佐太神社の神紋である扇をあらわしているとされている。(出典*2)
谷川はこの海蛇を"セグロウミヘビ"であろうといい、沖縄あたりから黒潮に乗って出雲の海岸までたどりついたことはまちがいないとする。宮司の朝山氏に「海を光して依り来る神と『古事記』にあるのは、海蛇ではないかとおもうのですが」と尋ね、宮司は「そうなんです。夜に海蛇が海の上をやってくるときは、金色の火の玉にみえると漁師たちはいいます。その金色の火の玉を掬って海蛇を捕るのです」と応えている。ここで思い出すのは、大和の三輪山に坐すオオナムチだ。大国主の異名でもあり、蛇神ということはご存じだろう。
もうひとつ。当社には早人の像が南殿、北殿に祀られている。(一般には非公開) この早人は元寇の際に人質にされた蒙古人八十八人とされているが、音韻から薩摩の”隼人”と解することもできなくはない。隼人といえば隼人舞である。京田辺市大住の月読神社に伝わる隼人舞は宮廷で邪霊退散のために舞われたものだが、元々はホスセリ(海幸彦。隼人の祖)が、弟のヒコホホデミ(山幸彦)と釣り針の件で悶着を起こし、溺れそうになった時に命乞いで舞った舞いである。日本書紀神代下第十段の一書には「乃ち足を挙げて踏行みて、其の溺苦びし状を学ぶ。初め潮、足に漬く時には、足占をす。膝に至る時には足を挙ぐ。股に至る時には走り廻る。腰に至る時には腰を捫ふ。脇に至る時には手を胸に置く。頸に至る時には手を挙げて飄掌す。爾より今に至るまでに、曾て廃絶無し」とある。(出典*3 ブログにルビが振れないのでご寛恕を) 潮位がだんだん高くなるのに合わせた所作で、首元まできた時に手をひらひらさせながら溺れる振りをする、そんなダンスだったのだろう。こちらは比良夫貝に手を挟まれて溺れ死んだ猿田彦を思わせる。冒頭に述べた通り、伊波普猷らの指摘では、サルタヒコもサダも沖縄のサダル神(行く道を先導し、土地の悪霊を鎮める神)に通じ、例証も多くあるという。
先人の考証を重ねてきたが、少し前にこのブログに書いた加賀の潜戸とともに、ここ佐太神社もどうやら古代海民の足跡を微かではあるがいまに残しているようだ。しかもそれは南からの海流と風に運ばれた、あの濃厚な森の匂いを纏っているのである。黒潮といえば太平洋のイメージが強いが、九州西部で分流し、日本海をゆく対馬海流も南の風物を運ぶ。来訪神はその証左で、その北限は秋田男鹿半島のナマハゲに及ぶ。出雲のみならず、日本海側の各地の民俗を丹念に拾っていけば、南の足跡はまだまだ見つけられそうだ。
ここを訪れた友人は、クバのような樹木が社殿の後ろに隠れていたと言っていた。次に訪れた時はその樹を探してみよう。
(2021年6月12日、2017年11月23日、9月9日)
出典
*1 吉野裕子「扇 -性と古代信仰-」人文書院 1996年
*2 谷川健一「シャコ貝幻想」 『増補古代史ノオト』所収 大和書房 1986年
*3 日本書紀(一) 岩波文庫 2015年
参考
佐太神社公式ホームページ http://sadajinjya.jp/?m=wp&WID=4211