江神社:三重県伊勢市二見町江992
栄野神社:三重県伊勢市二見町江
二見興玉神社に着いた時には雨が繁くなりはじめた。小学校五年の修学旅行以来だ。内宮、外宮も訪れたはずだが、覚えているのは昏いうちにたたき起こされて向かった夫婦岩と、夜のおはらい町の喧噪の中、土産物屋でペナントと自分のイニシャルを刻印したメダルを買ったことだけだ。あれから五十年も経つというのに老成の域にはほど遠い自分を顧みながら、久々の夫婦岩と対面した。
然而二見濱御舩坐干時 大若子命仁國名何問給白久(シカシテフタミノハマニミフネマストキニ オホワクコノミコトニクニノナイカニトトヒタマヒキマヲサク) 速雨二見國止白支(ハヤサメフタミノクニトマヲシキ) 尒時其濱御舩留給天坐時 佐見都日女参相支(ソノトキソノハマニミフネトゞメタマヒテマストキニ サミツヒメマヰリアヒキ) 汝國名何問給支(イマシガクニノイカニトトヒタマヒキ) 御詔毛乎不聞 御答毛不白天 以堅塩多御饗奉支(ミコトノリヲモキカズ ミコタヘモマヲサズテ カタシハタヲモッテミアヘタテマツリキ) 倭姫命悲慈給堅多社定給支(ヤマトヒメノミコトイナシメデタマヒテカタタノヤシロサダメタマヒキ) 千時乙若子命其濱尓御塩濱並御塩山定奉支(トキニオトワクコノミコトソノハマヲミシホハマナラビニミシホヤマトサダメマツリキ) 従其處幸行天五十鈴川後之入江入坐支(ヨリソコイデマシテイスズノカワジリノイリエニイリマシキ) 時仁佐美津日子参相支(トキニサミツヒコマヒリアヰキ) 問給此河名何白久(トヒタマハクコノカハノナイカニトマヲサク) 五十鈴川後止白支(イスズノカハジリトマヲシキ) 其處尓江社定給支(ソコニエノヤシロサダメタマヒキ)(出典*1)
以上は倭姫命世記に記された二見浦から江神社に至るくだりだ。いまは五十鈴川派川と支流扱いだが、神宮に列する各社の分布からも内宮が鎮座する宇治の地へはここから舟で入っていったと考えるべきだろう。江神社のことは、宗教人類学者植島啓司氏の「伊勢神宮とは何か」を読んで知った。その植島氏も筑紫申真の「アマテラスの誕生」を読み、元々は御神体がなかったことに興味を持ち、訪れたという。これら書物は非常にありがたい。いわゆる伊勢志摩の旅のガイドブックにはそうしたことは載っていないし、摂末社や所管社に触れていたとしてもせいぜい由緒と神名くらいだろう。検索するにも、思いつくキーワードから出発するので、乏しい知の範囲では江神社のようなところにはなかなかたどり着かない。
江神社は二見シーパラダイスの向かいの漁村らしき路地をいったん北に入り、住宅地と農地の間をまた南に戻った先の森の中にある。徒歩で15分ほどだが音無山に遮られているのでここが海のすぐ傍とはとても思えない。こんもりとした森に続く道を入っていくと左手に小さな社号標が立っていた。中に入ってみる。
小さな境内は神宮お決まりの配置だ。左が現殿地、右が古殿地で、社殿前に鳥居、敷き詰められた玉石の上に玉垣に囲われた小ぶりの本殿が建つ。前稿で触れた朝熊神社や多岐原神社に同じく、川に近いこともあるのか、水の香気漂うとても気持ちのよい場所だ。春の雨音に混ざって、田蛙の合唱が聞こえてくる。
筑紫申真に倣い、往時の江神社のありようを皇大神宮儀式帳(出典*2)で確認してみる。「長口女命 形在水、又大歳御祖命 形無、又宇加乃御玉」と三柱の神を祀るが、主祭神は「水」が形代であり、ほか二柱に形代はない。正殿一宇、玉垣一重とあり、平安時代初期には現在とほぼ変わらない姿だったのだろう。坐地は一町とされているので境内はかなり広く、北側に神田があったようだ。そこはいまも田圃で、湿地の痕跡を残しており、訪れた時には畦に水芭蕉の花が咲いていた。
「つまり、神体は五十鈴川の川の流れだというのです。五十鈴川の河口の岸にあるこの神社は、河口であると同時に海にのぞんだ場所ですから、神体は海の水だ、というわけでもありました。『儀式帳』の書かれた時代は、平安時代のはじめの延暦二十三年(804)ですが、そのころでも神社の実態はこういうものなのですから、それより古い七世紀に使われている祠という文字には、目をそむけることなく、赤裸々に見つめておかなければならないでしょう。祠には、カミをまつる小さな社という気持ちがあるのです。そして社には、カミまつりの祭場という本来の意味があるのです。祠という文字によって表現される皇大神宮の前身を、わたくしどもがイメージに描く場合には、あまり大きくない樹叢か、河原のような場所を発想すれば当たっていると思います」(出典*3)
さて、境内の動画をご覧いただいたかと思うが、玉垣の中、社殿の床下に寄ったところでちらちらと黒っぽいものが見えなかっただろうか。写真を掲載するのは気がひけるのでやめておくが、玉垣の隙間から目を凝らしてみると、床下中央の四隅に立てられた木杭の間に細い木の枝が渡されており、中にかわらけと思しき素焼きの皿、そしてその周囲を枯れた榊がまばらに囲んでいた。他の内宮摂社にも同様の設えがあったのだが、これはいったいなんだろうか。すぐに思い浮かぶのは心御柱だ。だが、心御柱は内宮および外宮の正殿のみにあり、別宮や摂末社で同様のものをつくることは考えにくい。筑紫申真が述べる通り、祭場の再現、つまり神籬なのだろうか。残念ながら確たる資料が見当たらず推測になるのだが、僕がこれまでに訪れた神社の中にも、本殿の床下に石(磐座)が据えられていたり、拝殿の裏に神籬があったりすることから、やはりこれは元々の祭事の姿を残したものといってよいように思う。
ところで、江神社のすぐ近くには栄野神社があって、社名の通り江神社に関係する。二見浦から上陸した倭姫命一行を迎えた佐美都比古命と、土地の名を問われて速雨二見國と答えた大若子命を祀っている。栄野神社の周囲には堀が巡らされていて、五十鈴川派川からの距離は200mもなく、やはりここも湿地であったことを思わせる場所だ。
江神社とすこし趣が異なるのは、ここが地主神を祀る江の鎮守であり、神宮には属していないことだろう。同じく水の気配が濃厚な場所でありながら、産土神ということもあってか、こちらの方がなんとなく親しみやすい。大和王権が当地を服属させていった名残のようなものと考えればよいのだろうか。植島啓司氏は前掲書の中で、こう指摘する。
「中央の神が別の地域で祀られるようになるにはいくつかの段階があって、いきなり中央の神が遷座されるというようなことはなく、まずはその土地の神を祀り、改めてその神を従えるかたちで合祀するか同一化するという手順を踏むことが多い。また、土地の神を村落中心部から外した場所に祀って、中央の神を村落の中心部に祀るというやり方を取ることもある」(出典*4)
さて、五回にわたって伊勢神宮とその周辺について書いてきた。まだまだ書きたいことはたくさんあるが、いったんこれで〆ることにする。いろいろと綴らせてもらったが、僕なりの伊勢神宮への理解は「(天皇の絶対性を担保するために構築された)システム」というものだ。これほど戦略的意図をもって巧妙につくられた統治のシステムもまたないだろう。なにせ悠久の未来を見通してつくられたものなのだ。このことには記紀という神話、歴史書の成立も関わってくる。これらを首謀し、主導したのが天武、持統朝だとすれば、当時の情況、思想を振り返っておくことは、行く末を見失って久しい現今の日本にとって、意外に大事なことかもしれない。
(2021年3月28日)
出典
*1 禰宜(度会)五月麻呂「倭姫命世記(伴信友遺書)」国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533542
*2 「皇大神宮儀式帳 平松文庫」京都大学附属図書館所蔵(部分)京都大学デジタル資料アーカイブhttps://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00006121#?c=0&m=0&s=0&cv=29&r=0&xywh=-1830%2C0%2C6731%2C2047
*3 筑紫申真「アマテラスの誕生」講談社学術文庫 2002年
*4 植島啓司「伊勢神宮とは何か −日本の神は海からやってきた−」集英社新書 2015年