朝熊岳金剛證寺:三重県伊勢市朝熊町548
伊勢市朝熊町にある朝熊神社は皇大神宮の筆頭摂社で、大歳神(穀物神)を主祭神に朝熊水神を相殿とし、五穀豊穣と水の神を祀る。当社は五十鈴川の下流に内宮を向いて鎮座するが、このあたり一帯は古代に磯部の民が入植して稲作を営んでいたという。祭神は他に苔虫命(磐長姫の別称)や葦津姫(木花開耶姫の別称)とあり、この二柱の父が大山祇命ということを考えると、古く朝熊山を遥拝した地であったことも考えられなくはないが、これは牽強に過ぎるか。ちなみに「アサマ」の地名や山名は「アサクマ」が約されたものだ。また、火山(富士山)の「浅間」ではなく、「浅隈」つまり浅瀬を意味するという。朝熊神社については創祀をはじめわからないことが多いのだが、いずれ対岸の鏡宮神社を含めてとりあげてみたいと思う。
朝熊山は皇大神宮の背後にある朝熊ヶ岳の最高峰で、中世には山岳信仰の拠点となった山である。「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」という俚謡で知られているが、山頂近くにある金剛證寺はお伊勢参りの最後に詣でる場所として、江戸時代には参詣コースに組み込まれていた。当寺周辺では平安時代末期の経筒が数多く発見されている。埋経の主は荒木田、度会、大中臣ら伊勢神宮の祀官に名を連ねる人々であり、しかも彼らは氏寺まで建立していた。我々は一般に神仏相容れず、こと伊勢神宮は仏など寄せつけもしないと思いがちだが、国を挙げての仏教の隆盛の中では神宮といえども感化を受けざるを得なかったようだ。
車で伊勢志摩スカイラインを登る。普通車で片道1270円とけっこうな料金をとられる上に、営業時間も開山忌と初詣を除いて朝7時から19時までの半日。私企業が敷設し、運営を行っているらしいが、それにしてもいい商売である。金剛證寺までは8km弱、ものの10分とかからない。大きな駐車場に車を入れ、山門にいたる石段を上り、くぐる。
目的は奥之院にあったので、さしたる関心もなく境内を見渡すと、本堂をつなぐ平地に池があり、太鼓橋がかかっている。手前の案内板の由緒を読むと、橋の向こうの祠に空海が感得し、彫塑したと伝わる木造の雨宝童子像が収まっていたらしい。少女の天照大神を映したとされるが、神仏習合の機縁ともなった仏像で、いまは宝物館に展示されている。
三重県内の博物館・資料館/金剛證寺宝物館 - 三重の文化 三重県環境生活部文化振興課
https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/kennai/kennaiDetail?id=835856
ところで、ここで撮った写真には光輪が写っていた。本堂の摩尼殿に向かって直径3mくらいの光の輪が60度ほどの斜角で浮かんでいる。場所柄もあって神仏や心霊現象と結びつけたくなるのは人の性だが、スマホを最新のiPhoneに更新したばかりなので、おそらくは光学現象だろう。オーブは光の反射が写真に写り込んだものだ。この光輪はどういうメカニズムでできるのだろうか。
金剛證寺は欽明天皇の勅によって暁台上人が開基し、天長年間(824~833)に弘法大師が中興して密教修法の地となった。その後、幾度かの変遷を経て、応永初年(1394)に鎌倉の建長寺の僧、東岳文昱(仏地禅師)が再興し、臨済宗に改めたという。しかしながら、これら事実を証する史料はなく、その歴史が明らかになるのは近世に入ってからのことだ。
本堂は慶長14年(1609)に姫路城主池田輝政によって再建されたもので、国指定の有形文化財。そのつくりはたしかに重厚且つ華麗なものだった。内陣には秘仏の虚空蔵菩薩像が祀られており、遷宮の翌年にのみ開帳される。また、後戸(注*1)には天照大神が祀ってあった筈(記憶違いかもしれない)なのだが、どちらも実見はかなわない。というわけで、賽銭、合掌を済ませて、奥の院への坂を上がっていく。
神宮の鬼門に建つ明星堂、八大龍王社への登拝口を過ぎ、奥の院への入口、極楽門に至る。一見、中華風の建造物だ。ここから奥の院までの間には膨大な数の塔婆が林立していると聞き、僕はそれらを見に訪れたのだった。極楽門手前の左手に卒塔婆林が見える。まずはそちらに入ってみよう。大きな霊園よろしく、ここには住所らしきものがある。「塔婆建立番地案内図」によれば、この区画は一番地の一だった。この葬習がはじまって、初めて塔婆が建てられた場所なのだろうか。
隙間なくびっしりと塔婆が立ち並んでいる。塔婆の高さはいろいろあって、大きなものだと5mは優に越える。高さは数基単位である程度揃えてあるのだが、幾何学的な造形物による巨大迷路のようで、霊場というよりモダンアートの感がある。「うへー、なんじゃこりゃ」と独り言ちながら塔婆群の間をうろうろしていて気づいたことがふたつ。ひとつは、多くの塔婆の下に花立があり、供花が新しいことだ。彼岸過ぎに訪れたこともあるのかもしれない。そしてもうひとつは、時々故人の遺物がぶら下がっていることだ。帽子やステッキ、スカーフといったものが多いのだが、故人への思いを断ち切れないがゆえの生々しさがある。それは、以前このブログでとりあげた恐山や川倉賽の河原に同じく、地蔵信仰に連なるものかもしれない。そういえば、奥之院に祀られているのは地蔵菩薩なのである。
いろいろな供え物をして放置されるので寺の方は困っているらしく、あちこちに掲示された看板やごみを入れる籠にまで「塔婆前の供物をさげたら山に捨てないで籠の中に入れるかお持ち帰り下さい」との注意書きがあった。そこでぎょっとしたのがこれだ。
生々しいというレベルではない。カタカタ言わしてそうな奴が無造作に転がってこちらを向いている。上下の入れ歯の間には榊の葉が一葉。シュールリアリズムここに極まれりである。
先を行こう。極楽門をくぐってすぐ右手は二番地でここにも塔婆が林立している。それどころか奥之院までの300m弱の道には、一部に当寺の歴代の僧の墓所はあるものの、両側はほぼ塔婆で埋め尽くされ、それは木造の壁のように続いていくのだった。歩いていると少しばかり気分が悪くなってくる。それは一万になんなんとする塔婆を建てた遺族の情念で、それらが道のあちこちに蟠っているからだと思われた。
ひと家族が塔婆の前で祈り、花を供えている姿を見かける。老婦人、その息子さんと娘さんだろうか。亡くなったのはつい先頃のことだろう。塔婆は真新しいもので、戒名の墨書もつややかに見えた。塔婆を納めるにはいったい幾らくらいかかるのだろうと、下世話なことを考えながら歩くうちに奥の院に着いたのだが、果たして左手に答えがあった。サイズ別に塔婆の見本が立てかけてあり、そこには志納金が記されていた。
一番安い(小さい)もので三萬、一番高い(大きい)もので五十萬とある。安いといえば安いし、高いといえば高い。だが、一万基にはなるというこの塔婆群に一基平均25万円の志だとしても25億円である。奉納された塔婆は概ね七回忌で入れ替わるそうなので、年間約3億5千万円は固いところだ。しかも原価は知れたものである。下衆な勘定をしてしまったが、このビジネスモデル、もとい葬習が続く限り、この収入だけでも寺院経営は左団扇ではないか。
参拝時間は16時までだ。薄墨色の春の暮色を感じながら呑海院の前に佇んでいると、社務所に詰めていた若い僧が「もう仕舞いますが、なにか御用はありますか」と顔を覗かせた。特に用事はないと断りを入れ、合掌してその場を後にする。帰途、申し合わせたように僧侶らが縦横無尽に車を走らせている。中には国産高級車も。さて、閉門の時間だ。
(2021年3月29日)
注)
1 後戸(うしろど)
仏堂の背後の入口のこと。この入口は本尊の背後にあることから宗教的な意味をもち,後戸を入った正面に本尊の護法神やより根源的な社神仏を安置する。(後略) 世界大百科事典 第2版 平凡社
参考)
清水潔「朝熊神社」谷川健一編「日本の神々−神社と聖地」第六巻「伊勢・志摩・伊賀・紀伊」白水社 1986年
萩原龍夫「伊勢神宮と仏様」明治大学人文科学研究所紀要, 7: 2-1-2-33 1969年
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/9845/1/jinbunkagakukiyo_7_2-1.pdf
小嶋独観「奉納百景 神様にどうしても伝えたい願い」駒草出版 2018年