石仏山:石川県鳳珠郡能登町柿生 ホ16


半島が好きだ。何より”半島”という言葉の響きがいいし、離島に劣らずどこも独特の文化を保っているからだ。紀伊、国東、大隅、下北、津軽、敦賀、丹後、伊豆…どこを訪れても目を見張る聖地があって、奥に入れば入るほど面白い。かねてから能登は訪れたかった場所なのだが、じっさい当地には思いもよらないほど多くの収穫があった。しばらくは能登の聖地について書いてみたいと思う。最初は石仏山だ。”いしぼとけ”と読む。


石仏山は標高100mほどの低山で、山容はいわゆる神奈備ではない。一見、日本各地のどこにでもある里の裏山と行った態だ。だが、この山は現在でも女人禁制を続けるたぐいまれな山なのである。いまでも女人禁制を続けているのは、吉野修験の聖地、大峰山の山上ヶ岳と、岡山は美作の後山の一部くらいではないか。しかし、後述するその際立った聖性に反して、拍子抜けするほどささやかな山なのである。

のと里山海道を降りて一般道に入ると、行き合う車は俄然少なくなる。長閑な里山の風景を眺めながら走る。道の両脇は時折真っ黄色に染まる。セイタカアワダチソウだ。キリンソウの亜種で、帰化植物だ。色は好きなのだが、ブタクサに似ていること、アレロパシー(注*1)があってイネやススキを駆逐することなどからあまり印象がよくない。

閑話休題。30分も走ると道の左手に「史跡 石仏山」のまだ新しい標識。ここを入るのだろう。すぐに左手、そして右手にも案内板が立つ。案内板の後ろのスペースに車を停めて降りたが、気になったのはクマだ。石川県ではこのところ人里どころか街中にまでクマが出没し、毎日のように人を襲っている。クマ出没注意の立て札がなければある程度安心してよかったのは過去のことで、いまは日本全国、山の麓あたりならどこで出喰わすかわからない。ショッピングモールのバックヤードにも、のそのそ入ってきてしまうのだ。というわけで、用意してきた熊鈴をデイパックに結わえつけ、加えて空のペットボトルをベコベコさせながら、山に入っていく。なぜ空のペットボトルをべこべこさせるかというと、クマは聴いたことのない奇妙な音は警戒するらしいからだ。


しばらくは苔生した木の階段があるのだが、前日までの度重なる雨もあって滑りやすいことこの上なく、足元も草で覆われていてよく見えない。注意しながらそろそろと登っていく。チリンチリン。ベコベコ。チリンチリン。ベコベコ。左手に舞台田、桟敷田の標識が立っている。「伝承によれば、近世期、石仏山「お山祭」神事として、田楽・能楽が奉納されていた。以後、藩政期の中後期から衰退し、跡地が「宮田」となった頃より、能舞台の場を「舞台田」、見物場所を「桟敷田」と呼称し、現在に至る。千九百五十年代、宮田の祭事用米作りが廃止され、植林したが、地形はほぼ往時の原形を留めている。」というのだが、どこがなにやらさっぱりわからない。と、前方に「これより先 女人禁制」との立て札。

ここで案内板に記された当地のことを紹介しておく。この地を知る手掛かりはほぼこれで全てだ。

「石仏山は『お山』と呼ばれ、女人禁制の『結界山』として聖域とされてきました。山麓斜面(北斜面)には祭場があり、そこには『前立』『唐戸』『奧立』という巨石が立てられています。『前立』と呼ばれる高さ3m・幅60cmの巨石とは、大己貴命(おおなむちのみこと)の依代であり、その巨石が立つやや平坦な広場が拝所となっています。その奥には石組み状の巨石群があり、それが『唐戸』です。またさらに奥には、高さ2.8mの巨石『奥立』があります。このふたつは、小彦貴命(すくなひこなのみこと)の依代であり、『奥の院』と呼ばれています。(後略)」


女人禁制の立て札の向こうになにやら見える。気が逸る。シダを掻き分けながらざくざくと進む。あった。「前立」だ。いわゆる磐座とは趣が異なる。どこが異なるのかは表現しづらいのだが、屹立した石が放つ独特の気のようなものが異様に強い。脇に立つふたつの尖った小ぶりの石は、中央の石の気を増幅させている。この三つの石は薬師三尊に見立てられているとも。そして背後には巨木が聳えている。周囲をぐるぐると回りながら、ためつすがめつする。かたちは異なるが、映画「2001年宇宙の旅」のモノリスをおもう。オベリスク、いやメンヒルか。さほど大きくはないが、平伏したくなるような厳かな姿だ。"神さびた"という形容はこうした所のためにあるのだろう。



次は奥の院を目指す。まずは「唐戸」だ。前立まではほぼ平地なのだが、そこから登る道はない。下調べでは12〜24mほど上部に多数の巨石があり、その中ほどの石組状の巨石が「唐戸」だという。もとより標高100mなのだ。大して登らないだろうと高を括り、直登を試みる。しかし、枯葉がつもり、倒木だらけの急斜面は距離がないとはいえ、まったくといってよいほど足場がないので厄介だ。石をつかめばぐらつき、枝につかまれば引っこ抜けるという按配で、なかなか進むことが出来ない。が、すぐに石組みらしきものが見えてくる。これが「唐戸」だろう。

こちらは”いかにも”の磐座だ。この積み石がいつ頃つくられたのか、初めからこの大きさ、結構だったのかはわからないが、明らかに人為によるということは見て知れる。いにしえびとはこの急斜面にどうやって石を持ち上げ、形をつくったのだろうか。苔生した石のまわりに、破れた御幣が貼りついている。軽く手を合わせて写真と動画を撮り、さらに上に「奥立」があると踏んで直登を続ける。


ところがすぐに平坦な場所に出てしまった。山頂だ。打って変わってとても穏やかな場所で、巨石はおろか石のかけらひとつない。「奥立」をやり過ごしてしまったのか。登ってきたところから少し外れて下りかけると、樹々の間になにやら見え隠れしている。枯葉の斜面を滑りながら下っていくと「前立」に似た、どこか陽石を思わせる巨石が屹立していた。間違いない。これが「奥立」だろう。スクナヒコナの依り代だという。

当地は、宿那彦神像石神社(すくなひこなのかみかたいしじんじゃ)と通称されるが、社殿はおろか、鳥居も、手水舎も、石灯籠も、狛犬も、およそ神社の設えにあるものはなにもない。ただ山の中に巨石が立ち、石組があるだけである。能登半島には他にも宿那彦神像石神社が三ヵ所(一ヶ所は元宮なので正しくは二ヶ所)あるが、能登一ノ宮の気多大社の祭神を引き合いに出すまでもなく、明らかに出雲国の影響があると思われる。出雲といえば石神信仰だ。磐座の宝庫として夙に知られるが、この地の巨石祭祀の始原も同じ係累の人々によると見るべきだろうか。




それにしてもここが女人禁制なのはなぜだろう。女人禁制は、修験道、仏教、神道においてそれぞれ説明がなされるが、基本的には聖地としての「山」、そして「女性」への向き合い方による。個々に説明することは控えるが、当地の立石付近から室町中期から後期の鏡が出土していることからすると、能登修験の影響があったことは疑いないだろう。女人禁制は、一般には、女性の出産や月経の穢れによるものとされているが、村落社会の行事における男子中心主義が山岳修行に適用されたとか、男性の修験者が山の女神のもとで修行するために世俗の女性を忌避したなどの解釈がなされている。(出典*1)

前立を振り返り振り返りしながら山を下りる。不審者に見えたのか、自転車に乗った老婆が、ずっとこちらを見ている。声をかけてみた。「いまそこの山に登ってきたんですが」彼女はただ、にこにこしている。「石仏山っていうんですね。お祭りはいつされるのですか」「毎年三月二日。男の人だけでしよります」「おかあさんたちは行かれないんですよね」「女の人は入ったらいかんから。昔から。支度だけ。入ったことない。うちのおかあさんも、おばあさんも、先祖代々ずっと。なにやら大きな石があるんでしょう」「ありました。一目見たくて東京からやってきたんです」「この部落の人たちは、昔から大切にしてます」「こちらの部落はなんという名前なんでしょう」その答えを聞いて驚いた。「ここは『じんど』っていいよります」「じんど、ですか」「神さんの道と書いて『じんどう』です」


彼女は少しはにかみながらも、とても誇らしげに答えたのだった。話を伺ったお礼をして車に戻る。ゆっくりと自転車を漕ぐ老婆の後ろ姿は、やがて暮色に溶け込んでしまい、豆粒のように小さくなると、どこかへ消えていった。


(2020年10月15日)


注)

*1 アレロパシー:原義は「植物が放出する化学物質が他の生物に阻害的あるいは促進的な何らかの作用を及ぼす現象」を意味する。千葉大学の沼田真教授は、アレロパシーを他感作用、作用物質を他感物質と名付けて紹介し、セイタカアワダチソウのアレロパシーに関する研究を行い、特定植物が優占する原因の一部が他感作用であると報告した。

http://www.naro.affrc.go.jp/archive/niaes/techdoc/inovlec2004/1-3.pdf


出典)

*1 宮家準「修験道小事典」法蔵館、2015年


参考)

姉崎等「クマにあったらどうするか」筑摩書房、2019年

小林忠雄・高橋裕「石仏山について」谷川健一編『日本の神々ー神社と聖地』第八巻「北陸」、白水社、1985年

鈴木正崇「女人禁制」吉川弘文館、2005年