御劔社(伏見稲荷大社):京都府京都市伏見区稲荷山官有地16


稲荷大神はおそらく日本の神々の中でもっとも多く祀られている神だろう。全国で三万社以上を数え、屋敷神など個人で祀っているものまで含めればさらに膨らむ。その総本宮が伏見稲荷大社だ。参拝者はこの五年間で八倍に増え、昨年は年間一千万人という驚異的な数になっている。国内の参拝者がそれほど増えるとは思えない。内訳がほぼインバウンド観光客だとすれば、少なくとも八百万人程度が訪れていることになる。エルサレムを訪れる観光客が年間四百万人なので、二倍もの外国人が押し寄せているのだ。数だけなら世界一の聖地といっても過言ではない。

こんなブログを書いていてなんだが、じつは僕はお稲荷さんが苦手だ。理由は神使の狐にあって、相性がよろしくないというか、正直にいって怖いのである。中学生の頃、隣のクラスに狐憑きになった男子がいた。彼はある時学校に来なくなり、クラスメートはいわゆる登校拒否だろうと思っていた。だが、彼は数週間後に戻ってきてすぐ、授業中に突如教室を飛び出し、誰もいない校庭を四つ足で駆け回りはじめたのだった。僕たちは校舎の二階からそれを見ていた。当時まことしやかに囁かれていたのは、近くの稲荷神社で賽銭を盗んだという噂だ。家族が賽銭を返させてお祓いをしたところ、彼の口から白い“もや”のようなものがたなびいて、賽銭箱の中に入っていったという後日談がある。賽銭をくすねた話に尾鰭がついたものと思うが、目を吊り上げ、髪を振り乱しながら、ぴょんぴょん跳ね、駆け回る姿は狐そのもので、みんな背筋が凍ったのだった。古くからの霊的動物で、当時は「化かされる」昔話よりも「憑依する」イメージの方が心理的な影響が大きかったように思う。テレビでよく心霊モノを放送していた頃のことだ。

前置きが長くなった。狐の件はいつか詳しく触れることにして本題に入ろう。伏見稲荷大社の聖性の一端を近現代において象徴するのが「お塚」である。稲荷山を訪れた方はおわかりのように熊鷹社あたりから先を行くと、参道の両脇に所狭しとお塚が立ち並び、巨大な「お塚団地」の様相を呈する。手元の参考書にはこう解説されている。「個人が石に神名を刻んだ『お塚』を稲荷山中の神蹟周辺に奉納する信仰が、明治以降に盛んとなった。お塚の多くは末広大神や薬力大神など、個人が稲荷神に寄せる信仰に基く神名となっている。昭和の初期に約二千五百基だったお塚は次第に数を増し、現在は一万基を超えるという。朱の鳥居と同様、稲荷神に対する人々の強い信仰を表している」(出典*1)



お塚をはじめて見ると不気味な印象を受けるだろう。それらは墓石をイメージさせ、陽光の下でもどこか薄暗く、黴臭い。石塔の背後には物の怪が隠れていて、にゅっと出てきそうな感がある。それが、大小とりまぜ夥しく蝟集しているのだ。参拝者の方々には失礼だが、いったい何を拝んでいるのだろうか。神名はさまざまであり、祀られた神々のプロフィールさえ明らかでないので戸惑う。参拝者が盛んに唱えるのは祝詞もあるが、聞こえてくるのはもっぱら般若心経である。神仏習合ここに極まれり、というよりも神仏を含めたあらゆる霊性が習合しているのがお塚なのだろう。そんなお塚群に囲まれて御劔社(または長者社)はある。




一の峰を御膳谷の方に向かって下っていくと右側に磐座、劔石がある。この磐座を祀るのが御劔社で、明治時代に入って確定された七神蹟のひとつだ。案内板には「ご神体は社殿奥にある御劔石(雷石)。劔石は長者社の神蹟であり、稲荷山に存在する他の六つの神蹟地(神様が鎮まり、かつて祠があった場所。応仁の乱で祠が消失し、再建されずに現在に至る)と同じく、古くから神祭りの場であったことがうかがえる。社伝左手奥、御劔石の下側には「焼刃の水」と呼ばれる井戸がある。謡曲「小鍛冶」では、勅命を受けた三条小鍛冶宗近がこの地で稲荷大神の力を借りて名刀「小狐丸」を鍛えたとある。これにちなみ、鉄工の神様、ものづくりの神様として金属加工事業者や製造業社の信仰を集めている。毎年11月6日には火焚祭が行われる」とある。

この御劔社、よくみると拝殿前にいるのは狐ではなく狛犬である。しかも祭神は伏見稲荷大社が祀る五柱でも、剣神として知られる経津主神でもなく、加茂玉依姫なのである。伏見稲荷大社の創祀に関わるのは秦氏の長者、秦伊侶具であり、別名長者社といわれるのは理解できる。だが、玉依姫といえば、下鴨神社(賀茂御祖神社)の東殿に祀られる賀茂氏の氏神の一柱である。このあたりはよくわからないので推理するほかないのだが、ひとつの手掛かりはこの磐座で、一名「雷石」とも呼ばれていることだ。雷神は龍神であり、龍神は水神であることからすると、玉依姫が祀られていることも満更おかしなことではない。上賀茂神社(賀茂別雷神社)の祭神、賀茂別雷命は玉依姫の息子である。山城国逸文には、玉依姫が鴨川で遊んでいると丹塗りの矢が流れてきたのでこれを家に持ち帰ったところ、息子を孕んだとある。そしてこの父親は乙訓神社の祭神、火雷神だったといわれる。これは何を意味するのだろう。

つまり、伏見稲荷大社の創祀とは異なる神祀りの文脈が、お山の中にあったのではないかということだ。神話の解釈と歴史を紐づけることなど荷が重すぎるのでこのくらいにしておくが、山城国に先住したのが賀茂氏であったならば、これはあり得る話かもしれない。ちなみにそれぞれの創祀は、賀茂社が天武天皇白鳳六年(661年)、伏見稲荷大社が元明天皇和銅四年(711年)に比定されている。よって、この磐座を賀茂氏が秦氏に先んじて祀っていたことも考えられる。聖地の場所は動かないが、祀られる神々は歴史の経過によって上書きされることが多々あるのだが、御劔社の場合は磐座という形ある「存在」がそのまま残され、今に至っているのではないだろうか。


古代思想史、民俗学者の山上伊豆母は、お塚の原型は磐境、磐座であり、岩石崇拝の本質は雷神及び龍神だという(参考*2)が、ここに密集するお塚は劔石に吸い寄せられたという見方もできる。他にもこうした磁場のような場所は稲荷山の山中に点在しており、それらが七神蹟ということもできるだろう。


前述の山上氏は、伏見稲荷大社の「お山のお塚」という書籍を引き、こうも記している。「(前略)まったく不規則に存するのではなく、最も奥山の『一ノ峰』の上社神蹟、『二ノ峰』の中社神蹟、『三の峰』の下社神蹟を中心にそれぞれ円陣をえがき、いわばストーン・サークル状に配されている。『お塚』にはそれぞれ三柱の神名が付されているので、神名数は合わせて約三万を数え、『お塚』の一つ一つが渦巻状に番号を登録されていることも興味を引く」。(出典*2)


平面図にするとお塚は人知れずマンダラを描いているかもしれない。伏見稲荷大社の宇宙はいったいどこまで広がっているのだろうか。その全貌は杳としてしれず、なんでも飲み込んでしまうあたりはブラックホールさながらだ。日本人の民間信仰を明らかにする上で避けて通れない場所といえよう。次に取り上げるときは、荼枳尼天や宇賀神などとの習合や、修験や巫者と狐やお塚の関係などシャーマニックな視点からも考えてみようと思う。


(2020年1月18日、2017年12月9日)


出典・参考

*1 「稲荷大神」中村陽監修 戎光祥出版 2009年

*2   山上伊豆母「伏見稲荷大社」

  谷川健一編『日本の神々-神社と聖地』第五巻「山城・近江」、白水社 1985年

近藤喜博「稲荷信仰」塙書房 2006年

島田裕巳「日本の8大聖地」光文社 2019年