通順坊平巴の宿(つうじんぼうだいらともえのしゅく):栃木県鹿沼市入粟野1508
深山巴の宿(じんぜんともえのしゅく):栃木県鹿沼市草久5076-1
宿と言っても旅館やホテルの話ではない。とりあげるのは日光開山の祖、勝道上人の修行の場だ。勝道上人に関する伝記は他の開祖に比べればまだある方だという。というのも、弘法大師空海がその事績を『沙門勝道歴山水塋玄珠碑』(しゃもんしょうどうさんすいをめぐりてげんしゅをみがくひ)に記しており、おおよそのことがわかるからである。碑は現存しないが碑文は残されており、空海の弟子による撰文集「性霊集」で確認することができる。勝道は空海と同時代の僧だ。仏教民俗学者の五来重は、ともに吉野修験の修法であった虚空蔵求聞持法を修しており、空海はその縁から伝記を書いたのだろうとしている。
このブログの関心は聖地の「場」、あるいは「空間」に向いているので、ここでは勝道の日光開山物語には触れず、専らその行場の印象を記すことにする。「場」が本来持っている聖性は千年経とうが二千年経とうが大きく変わらない。一方、先人が得た霊性は、とにかくその跡を歩き、そこに身を投じてみることでしか感得することは出来ない。百聞は一見に如かずなのだ。修験道の抖擻という行法は、闇雲に山の中を歩き回ることではなく、先達が歩いた道をなぞることなのかもしれない。勝道は二荒山(いまの男体山)に三度登拝を試み、最初の二度は失敗している。その間、古峯ヶ原を中心とする山麓で修行に勤しんでいたわけだが、その拠点はいくつかある。古峯神社はもちろん、四本龍寺(紫雲立寺・二荒山神社旧本宮)もそうした場所と見てよいだろう。
さて、まずは通順坊平巴の宿だ。東北道栃木ICから県道を一時間ほど走った山の中にある。このあたりは「21世紀林業創造の森」と称する林業の技術研修施設で、訓練棟や宿泊所、交流館などの建物が立ち並ぶのだが、目的とする場所がさっぱりわからない。五月の連休中とあって、駐車場には僕の車一台。広い敷地内には誰もおらず、鳥の囀りが聞こえるばかりだ。研修棟があった。管理の必要から誰かはいるだろうと訪ねてみると、人のよさそうな職員の方がお二人出てきてくれた。不審な輩が「このあたりに史跡みたいなものはありますかね」と突然切り出すのでびっくりしたのだろう。職員氏は腕組みをして、目を白黒させながら「さーぁ」と言い掛けると、脇の一人が「あ、そこに看板みたいなのあったかもしれないですね。ちゃんと見たことはありませんが」とセンターの外に出て「あの辺に看板がある筈です」と指差した。ほんの50mほど先である。礼を言ってその方向に歩いて行くと、たしかに案内板があった。
史跡 通順坊平巴の宿
この史跡は、粟野町大字入粟野1508番地(横根山)通称「通順坊平」という。ここは上古、中山道から会津に通する交通の要路に当たる。勝道上人は出流修練の後、大剣峰(横根山)に登り三年の修行を積んだとされ、その後薬師寺にて戒を受け僧籍に入ってから、弟子達と日光開山の壮途に上り、ここ巴の宿に籠って修行した後、日光開山を成し遂げたといわれる。この史跡には巴に流れる沢水・五輪塔・祭儀跡の磐座や古桜又石小屋等日光修験の行法を積んだとされる数々の遺跡が残っている、貴重な文化財です。
史跡指定面積 4,530㎡
案内板のあるところから入っていく。植林の森だが道などない。雑草をかき分けながら行くと小さな五輪塔が二つ。その中間にこれも小さな長方体の石。目を凝らすと「巴の宿」と彫りの跡が僅かに確認できる。周りには石のかけらが散らばっている。意味ある場だということはわかるのだが、それにしても何もない。
あちこちでシダが思うがままに葉を広げている。少し奥まで足を伸ばすと磐座らしき巨石が点在していた。これが求聞持岩なのだろうか。建物の跡を探してみたが、礎石らしきものは見当たらない。案内板にある古桜又石小屋はどこにあるのだろうか。そもそもその小屋は何なのか。修行の場なので、厳しさを思わせる景色があるのかとも思ったが、何もない長閑な山の中の平かな場所である。
虚空蔵求聞持法のように真言を百万遍唱えるような修行の場というものは、案外そんなものなのかもしれない。しかし、日光開山においてここはベースキャンプの一つとしてかなり重要な地なのだ。「21世紀林業創造の森」を作ったのなら、ここも手厚く保存策を講じればよいのにと思うが、行政は縦割りで動くから全く別物の扱いなのだろう。
車に戻り、さらにうねうねと林道を行くと県道58号線に出る。古峯神社の門前だが僕は人が多いところを苦手とするので、これはやり過ごして高原に通ずる道をさらに走る。深山巴の宿はハイキングコースの一部にあるのだが、県道沿いの古峯ヶ原高原の入口に数台なら車が停められる。
三枚石に向かうハイカーを他所目に深山巴の宿の方に向かって歩いていく。空気が少し湿っている。植生からこのあたりは湿原だということがわかる。微かに水の流れる音が聞こえてくると、もうそこは深山巴の宿への入口だ。空気が変わる。素朴な木の鳥居が続き、清流をわたるとそこに聖なる空間が広がっていた。
だが、石祠、五輪塔、不動明王、地蔵などが脈絡なく祀られているほかに、これといった設えがあるわけではない。考えてみれば当たり前だ。勝道は神を感得するための適地を探して当地に至ったわけで、そもそもここに何かがある筈もない。あるとすれば、それは自然そのものだろう。案内板にはこう記されている。
日光開山の勝道上人が、明星天子の示現により修行の地と定められたところで、ヒノキ・スギ・モミ・ミズナラ・シラカバ・シロヤシオなど樹木の中に巴形に清水が流れております。上人はここに草庵を結び、古峯の大神の御神威と古峯ヶ原の人々の援助によって修行を積まれ、二荒山を開山されました。いわゆる、日光開山の発祥の地となった所であり、のちには全日光僧坊達の修行の場として、一千余年の永きにわたり、明治初年に至るまで修験道が行われた所でもあります。現在では、古峯神社の禊所として使われております。
環境省・栃木県
明星天子とは、明けの明星、虚空蔵菩薩のことだ。勝道はここで百日間にわたり、真言を百万遍唱え、ある朝朦朧としながら、明け方の天空に明星を見たのだろう。その時の心持ちや如何に、である。おそらく二度失敗した二荒山の頂を極めることが、これでできるという、確信めいたものが胸の裡からふつふつと湧きあがったに違いない。それは歓喜であり、ある種のエクスタシーだ。空海は室戸岬の御厨人窟(みくろど)で同じ修行(虚空蔵求聞持法)を行い、口の中に明星が飛び込んできたのだが、この経験の共有が後年勝道の伝記を書くことに繋がったのだと思う。
僕たちは先人の経験した不思議な経験を共有しようとさまざまな聖地に赴く。だが、追体験するにはこちら側にもそれなりの心構え、身構えのようなものはいると思う。最後に、日光という聖地に勝道が見ただろうものを記しておく。ことば遊びめくが、信仰に導かれる、或いは信仰を開くとは、こういうことなのではないか。
日光(にっこう)-二荒(にこう)-二荒(ふたら)-補陀落(ふだらく=ポタラカ)…観音菩薩の坐すところ
(2016年5月6日)
参考
「山の宗教 −修験道案内−」五来重 著 角川ソフィア文庫
「山岳修験への招待 –霊山と修行体験−」宮家準 編 新人物往来社