天石門別神社(あめのいわとわけじんじゃ):岡山県美作市滝宮89


吉備国、今の岡山県を中心とした山陽地域は磐座の多いところで、その種類もさまざまだ。代表例は吉備中山で、吉備津神社、吉備津彦神社を引き合いに出すまでもなく、この低山のあちこちで古代祭祀が営まれていただろうことは山中を少し歩けば容易にわかる。この地域は他にも至るところに磐座や神体石があって、巨石好きには堪らないところだ。


前夜は美作温泉に投宿し、朝一番で天石門別神社に向かう。県道を二十分ばかり走り、竜宮湖(龍の宮ダム)あたりのトンネル手前を左に入る。環境庁と岡山県による木の案内板がある。


美作三宮といわれる天石門別神社は、社殿の後に琴弾の滝があることから、滝宮とも呼ばれています。創建は不詳ですが、社伝によると吉備津彦命が古代吉備の国平定のため、西下した際、当社の祭神天手力男命の助けで平定できたお礼として、当地を選び、自ら祭主となって鎮斎されたと伝えられています。社地には隨神門、籠殿、拝殿、本殿の全てが整っているうえに古代祭祀の遺跡「磐境」といわれる石積の塚も残っています。

目指すはこの石積の塚だ。訪れる前に写真で見たその塚は土饅頭のようでもあり、磐境、或いは磐座というには奇妙な造作だった。




河会川沿いに下り、鳥居をくぐり、橋を渡る。笠木のない二本の石柱に細い〆縄がかかり、申し訳程度に紙垂が下がっている。左に折れると参道が続く。人気はない。石段を上り、周囲から少し高い場所にある社殿を拝する。近くの龍の宮ダムの建設にともない、7.3mほど盛り土して社殿を遷座したらしい。








社殿の裏に回り、石段を下りると「御正殿旧跡」の石碑。そのすぐ後に件の岩が鎮まっていた。旧社殿は棟札から嘉元三年(1305年)に建立されたと伝わるが、位置関係から考えるとこの岩を御神体として祀っていたものと思われる。明らかに人為によるものとわかるが、こうして石で覆うことになにか意味を持たせたのだろうか。



「巨石巡礼」という大変優れたWebサイトがあるのだが、この石の由来について触れられていたので、孫引きになるが引用しておく。(出典*1)


薬師寺慎一氏の『祭祀から見た古代吉備』(吉備人出版)のなかに、宮司さんから寄せられた石積の話が載せられている。「私の家は代々宮司職を世襲しており、私は第69代めに当たります。曾祖父中川寛(明治38年没)が残した記録によれば、250年ほど前、平らな岩があり、人がそれに腰掛けて弁当を食べたところ、神罰があった。そこで岩の周りを石で囲んだのだそうです。これが今の石積みで、中にある平らな石がイワクラです。なお、御祭神の天手力男之命(あめのたぢからおのみこと)はこの岩に乗って飛んで来られたと伝えられています」。また、元禄4年(1691)成稿の美作国の地誌『作陽誌』には、この石積は「猟師塚」で、天石門別神(あまのいわとわけのかみ)がこの地に鎮座したときに案内した猟師の塚、あるいは国司の墓と伝えられ、造られたのは近年のことなりと記されている。


ということなのだが、伝承の域を出るものではなく、実際のところこれが何なのかはわからない。ただ、この磐座が祭神となんらか関係のあることは間違いないだろう。


祭神は天手力男神とされているが、延喜式神名帳にある社名は「天石門別神社」だ。天石門別神は、天孫、邇邇芸命(ニニギノミコト)の葦原中つ国への降臨に随伴した布刀玉命(フトダマノミコト)ら五伴緒(イツトモノオ)に副えられた神の一柱で、御門の神である。別名、櫛石窓神(クシイワマドノカミ)、豊石窓神(トヨイワマドノカミ)とされ、随神門に祀られていることがよくある。要するに守衛だが、石屋戸そのものが神格となったものと思われる。天手力男神を異名同神とする説もある。だが、この磐座は石屋戸とは異なり、石で固められた土饅頭なのである。


さらに川沿いを琴弾の滝へ。雄滝と雌滝からなり、落差は13mとさほどではないが、通称十町といわれる深い谷間にあるためか、幽玄の趣がある。石屋戸に擬えられた場所はここではないのか。当社は古くから滝宮と別称されるが、元々はここが祈りの場所だっただろうことは容易に想像がつく。だとすれば当地のカミは滝であり、河合川だ。この滝は古代以前には水分神であり、ここに記紀神話が被さって、祭神が石門別神、天手力命となったのではないかと思う。






ところで先に引いた「巨石巡礼」の著者はじめ何人かの言及があるのだが、この岩石遺構と京都の貴船神社奥宮境内にある「船形石」の類似が気になっている。手持ちの磐座や岩石に関する書籍、写真集を片端から当たったが、同じようなものを見つけることは出来なかった。だが、関連はありそうだ。形状こそ違えど、ともに石で覆われた人為による構築物ということ、そしてどちらも水に深く関係する神社ということである。貴船神社奥宮の案内板には「この船形の石積は玉依姫御料の黄船を、人目を忌みて小石で覆ったと伝う。航海する時、この小石を戴き携帯すれば、海上安全といわれている。」とある。一般に古代の遺物で舟形といえば古墳時代の石棺を指すことが多く、このあたりも気になるところだ。


貴船神社奥宮の船形石


この石造物を造る側の気持ちになってみると、意匠や装飾ではなく「外から封じ込めて内側から出てこないようにする」、或いは「外から危害を及ぼすものから内側のものを守る」という祈りを込めているような気がする。土偶のようにCTでスキャンするといったことは出来ないので想像に委ねるしかないが、双方の伝承からすれば僕は後者のように思う。石で覆われた磐座の中には、とても大事ななにかが匿されているのではないか。もしかするとそれは古の土豪の墓なのかもしれないなどと空想してみる。


やはり吉備国は面白い。


(2019年2月3日)


出典

*1 巨石巡礼 天石門別神社

 http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_chugoku/oka_amano/amano.htm


参考

「日本の神々ー神社と聖地ー 2 山陽 四国」谷川健一編 白水社 1984年

「[縮刷版]神道事典」國學院大学日本文化研究所編 弘文堂 1999年