旧御射山社:長野県諏訪市大字四賀
「雪散るや 穂屋の薄(すすき)の刈り残し」松尾芭蕉(猿蓑集 巻之一)
それにしてもなんとおおらかで静謐なところなのか。一度目は三月上旬、二度目は四月中旬に訪れたが、両日とも人ひとりおらず、残雪の草原の澄みわたった空気を胸いっぱいに吸い込んできたのだった。
諏訪大社には上社と下社があるが、どちらにも御射山社があり、上社は中央道諏訪南IC近く、下社は秋宮から3km弱登ったところに所在する。下社の御射山社は元禄年間に遷座されたもので、それまでは奥霧ヶ峰の八島湿原近くにあった。現在は旧御射山(もとみさやま)と称されている。
ここはかつて、諏訪大社が御狩神事を行った祭場だ。以下に祭祀の概要を引用しておく。
「旧暦七月二十六日から八月一日まで、上社は諏訪郡原村の八ヶ岳山麓の原山に、下社は奥霧ヶ峰(海抜1640m)の八島高層湿原の一部に、それぞれ拡大な円形の屋外桟敷を設け、そこに穂屋(ほや)と呼ぶ仮屋を建てて、祭のあいだ仮伯し祭祀が行われるようになった。そのまわりの限りなく拡がる荒野を神野(こうや)とよんで、そこでは遠駈、騎射それに放鷹を主要素とした草鹿(くさじし)、三馳(みち)、小笠駈(おがさがけ)、あるいは流鏑馬、ときには相撲などの競技も行われたものと思われる」(出典*1)
源義家にしたがい武勲をたてた十七代大祝(注*1)為中以来、諏訪神氏は武士化し、保元の乱、続く木曽義仲の挙兵において行動をともにした。これに伴って源頼朝から諏訪上下社に天領地の寄進を受け、深い関係が結ばれたとされている。引き続き、下社の御射山について引用する。
「下社の御射山社は、長軸370m・短径270mにおよぶ、巨大なコロシアム状の円形土壇を築造し、その桟敷の段は高さ12mにおよぶ部分もあり、それが十数段重なって、いまも累累と夏草の中に横たわっている。あたりは、はなはだしい土師器盃(かわらけ)の破片、また宋銭、刀、鉄鏃、馬具、薙鎌、それに宋代の青磁片もかなり出土している。早大調査団の発掘調査によると、各段には穂屋阯らしい細い柱穴や炉などがみられ、中央凹地には、神殿跡らしいかなりしっかりした建造物阯も知られている。この大祭は、鎌倉幕府の強いバックアップによって行われたもののようで、したがって北条氏の全盛期、承久頃から栄えに栄えた」。(中略) 幕府は諏訪明神の加護と武勇をたのみ、神社はその政治・経済の力に祭政の経営をゆだねていたものであろう。諏訪大社の全盛時代といっていい」(出典*1)
下社秋宮から霧ヶ峰を目指し、諏訪白樺湖小諸線を行く。ビーナスラインに入り、3kmほど進んだあたりが旧御射山社への入口、目指すはヒュッテ御射山だ。いまは宿泊施設兼カフェだが、その前身は当地の発掘調査を行った考古学者、金井典美氏が病気保養と山歩きのために仲間と建てた「クラブゆうすげ小屋」である。発掘調査の経緯を含め、同氏の著書「御射山」学生社 に詳しく触れられているので、ご関心の向きは是非参照いただきたい。ここには駐車場がない。2kmほど先にある八島ビジターセンターに停めて30分ほど歩いて戻るか、短時間なら気をつけて路上駐車するしかない。
ヒュッテ御射山の前に出る。雪解け水の流れる小川をわたり、眼前に開けるのは茫洋とした枯れ草の広大な草原だった。起伏のある楕円状の草原の山端に残る雪は春の訪れを思わせる。

ここで行われた祭りとその設えについては引用の通りだが、往時は神官を従えた大祝一行、狩装束の武士のみならず、村々から集まった大勢の見物客、芸人、乞食にいたるまで貴賎雑多な人々で大いに賑わったという。だが、いまここにはその面影ひとつない。だだっ広い原っぱの真ん中に小梨(ズミ)の老木が佇み、その傍に僅かな樹々と御柱に囲まれた石祠があるのみである。
「タルコフスキー」と「御射山」。関係などある筈がないと思いながら検索を試みた。そこで出逢ったのが冒頭の芭蕉の句だ。大畑等という俳人が現代俳句協会に寄せたブログ(出典*2)の中に触れられていた。タルコフスキーの著書「映像のポエジア」には、この句が引いてあるという。「タルコフスキーはこの句を掲げるのみで素通りしているが、もう語る必要がないほど彼の『ノスタルジア』を句は語っているのだろう、と私は想像した」
同氏による句の解釈はこうだ。「一面の枯れた薄原にいる。むこうに刈り取られた跡が見える。ぽっかりと穴が空いているようだ。刈り取られた薄は神事のための穂屋に使われた。しかしその穂屋も今は取り壊されてもう無いのだ。ああ、雪がちらついてきた」とこんなところだろう。伝統的な「わび・さび」を継承しながら、「刈残し」でもって俳諧の境地を打ち出していると思う。
さて、旧御射山社に戻ろう。ここに祀られている神を考えてみる。もとより狩猟神的性格の強い諏訪の神は、中世においては御狩場ということもあって、武神とみなされた。「御射」もここから当て字されたものだろう。
では、現御射山神社はどうか。ここには祠が三つあり、祭神は左から兒宮(伊弉冊尊)、御射山社、八千矛社(大国主命)とされている。そして下社だ。春宮、秋宮ともに男神の建御名方神、妃神の八坂刀売神、相殿に兄神の八重事代主神が祀られている。
(現)御射山神社神話には、出雲を所払いされた建御名方神が先住の洩矢神と天竜川を挟んで戦い、前者が後者を従えたと伝え、後の祀り事において前者が大祝、後者が神長官(注*2)となったとされている。だが、ここは山宮であり、元宮なのだ。より古層の神を祀っていたと考える方が妥当のように思う。とすれば、先住の洩矢神なのか。さらに遡る。ここに祀られている古層の神はやはり「ミシャグチ」ではないかと思うのだ。文献史学や考古学的な論拠ではない。その風景、佇まいから直感的にそうだと思わざるを得ないのである。「ミシャグチ」は、諏訪の最古層にある石もしくは樹木を神体とする精霊だ。今も諏訪の地のあちこちに、そっと祀られている地母神である。ミシャグチを広域にわたって踏査した茅野の寒天屋の女将、今井野菊さんは、小文「御作神」(出典*3)の中でこう記す。
「私たちの大祖先も、石棒・石皿の『石神』を第一の神『さく神』のご神体として祭っています。『御頭御左口神』の総社・神長祈祷殿の極秘のご神体は石神であります。この石神たちによって担われた、さく神信仰であります」
旧御射山社の石祠の中には、石棒が収められているのではないか。ならばそれは、縄文時代から続いてきた信仰なのかもしれない。
ここに身を置くと、芭蕉がこの地で句を詠んだのもさもありなん、えもいわれぬ幽玄を感じる。映画「ノスタルジア」の舞台も、明らかにこの地が意識されたものだろう。かつてタルコフスキーは「惑星ソラリス」で大阪万博の会場での撮影を期し、一度だけ日本を訪れている。許可が下りず、来日したら会期が終了していたという。だがもしかすると、滞在中にお忍びで旧御射山を訪れていたのかもしれない。この映像を見る限り、そうとしか思えないのである。
(2019年4月19日、2016年3月6日)
(出典)
*1:「諏訪大社」藤森栄一著 中央公論美術出版 昭和40年
*2:「アンドレイ・タルコフスキーの芭蕉(上)」大畑等 現代俳句協会ブログ 2010年
(注)
*1:大祝(おおほうり)
祝は、神道において神に奉仕する人の総称、神職。諏訪神社の大祝は神の直系の現人神(あらひとがみ)とされ、領主でもあった。上社は諏訪氏、下社は金刺氏が代々務めた。大祝は郡外へ出ないという不文律があった。
*2:神長官(じんちょうかん)
現人神である大祝の下で実際に神事を取り仕切った五官祝(ごかんのほうり)の筆頭。上社の守屋氏が知られている。(筆者は下社神長官については寡聞にして聞いたことはない)大祝に降りる精霊、ミシャグチの祭祀権を有し、ミシャグチ上げやミシャグチ降ろしの技法を駆使して祭祀を取り仕切っていた。
(参考)
「御射山」金井典美著 学生社 昭和43年
「湿原祭祀 第2版」金井典美著 法政大学出版局 1977年
「諏訪大社」三輪磐根著 学生社 昭和53年
「古諏訪の祭祀と氏族」古部族研究会編 人間社文庫 2017年
「諏訪信仰の発生と展開」古部族研究会編 人間社文庫 2017年
神長官守屋資料館のしおり
http://www.komainu.org/nagano/chinosi/MishagujiSousha/siori.pdf