おな神の森:和歌山県新宮市三輪崎
おな神の森は、過去に投稿した「熊野の女酋長、丹敷戸畔(ニシキトベ )をめぐって」
https://ameblo.jp/zentayaima/entry-12565149814.html の資料を収集する過程で知った。丹敷戸畔は、記紀神話の神武東征譚に逆賊として僅かに登場する熊野の女性首長である。神話のエピソードであり、史実の考証などできる筈もないのだが、その伝承地は五ヶ所もあるといい、それぞれの地で今も祀られつづけている。おな神の森はその一つで、熊野古道中辺路、高野坂の一部にある。
高野坂は、すぐ近くを紀勢本線や国道42号線が通っているとはとても思えない美しく奥ゆかしい道で、石畳や石仏、猪垣なども残り、御手洗海岸の眺望も楽しめる。距離にして1.5km、高低差は50mほど。ゆっくり歩き、寄り道に時間を費やしても一時間とかからない。
おな神の森は高野坂の中ほど、三輪崎の先端部にあたる広津野にある。同地の一角には、金光稲荷神社が坐す。金光稲荷神社は広島東照宮の境内社で、所在する二葉山山頂の奥宮は磐座を神体としている。徳川家康の薨去後に創建とのことで古社ではないが、磐座の存在から察するにもとよりこの山が聖地であったことは確かだろう。当地の金光稲荷は近い時代に信者が勧請したものと思ったが、あとで鳥居の扁額をよく見ると「金光大神」とあった。
これは、教派神道十三派の一つ、金光教教祖の川手文治郎を指す神名だ。一方、境内の幟には「正一位稲荷大明神」とあったが、その神紋は伏見稲荷とは異なり、豊川稲荷に近い。ということは、荼枳尼天信仰と金光教が習合した聖地ということになるのだろうか。いやはや民間信仰というものはよくわからない。
鳥居のあるあたりから、空気が変わりはじめる。鳥居の外に”もわー”となにかはみ出しているような感がある。このブログで綴ってきたいくつかの聖地に同じく、巨大なエアドーム、ふんわりとした空気の結界のように感じる。かつて重い小児喘息を患っていた僕は、幼い頃から気圧の変化に敏感で、たとえば雨が降る数日前には決まって耳鳴りがするし、台風が迫ってくるのも身体の変調としてわかる。霊感などではなく、生き物としての能力なのだろうが、人間は未だどこかにそうした力を残している筈で、そうした自然の変化を感じとる力をなくしてはならないと思う。
鳥居をくぐり、森の中を歩く。樹叢は暖帯のものだ。空気を吸い込む。なんと気持ちがいい場所なのだろう。すぐに左手の丘の上に二の鳥居が現れる。稲荷社の設えとしてはよくあるものだが、石祠のすぐ後ろにはひこばえに囲まれた桂の樹があり、空間の中心を為している。鳥居、瑞牆、祠などの、いわゆる神社の要素一切を取り払ってしまうと、そこは矢倉或いは高倉と呼ばれる熊野固有の無社殿神社、さらにいえば琉球弧の御嶽と同じ空間になる。元々この地に祀られた神は、樹木、或いは森そのものではないかと思われる。
さて、この地は冒頭に述べたように、丹敷戸畔の塚があるとされている。「塚」は「墓」をも意味することばであり、そう言われてみれば稲荷社のあるところを含め、森全体が大きな円墳のような気もしてくる。古墳然とはしておらず、お宝目当てに掘り起こした輩もいない筈で、確かなことはわからないが、そう思いたくなるような場なのである。このブログは何かを考証して問うものではないので深入りはしないが、丹敷戸畔かどうかは別としてもこのあたりにいた古代人の葬地の可能性もあるかもしれない。それは、かつて多くの御嶽を訪れた経験と直感からくるもので、僕は古い御嶽のほとんどが遠い昔の祖先の葬地ではないかと考えるからだ。
当地は江戸時代に見晴らしがよいことから「おながめ」、転じて「おな神」の森と呼んだといわれるが、これはこじつけというものだろう。ここで引き合いに出したいのは「おなり神」である。「おなり神」は沖縄学の泰斗、伊波普猷が提起し、後に柳田国男、折口信夫が展開した。「妹(おなり)は兄(えけり)の守護神」という、南島に広く見られた信仰である。聞得大君と琉球国王の関係、祭政一致のあり方もこれを基本原理としたものと考えてよい。柳田國男は「妹の力」の中で、田植えの際の古語「オナリ」に言及し、玉依彦と玉依姫の関係に触れた上で、大和と琉球に共通する古代信仰ではないかと考察した。「おなり神→おな神」は、熊野在住の在野の民俗学者、津名道代氏がその著書(*1)で提示した仮説で、これも牽強付会といってしまえばそれまでだが、補陀落渡海ということも含め、黒潮によって結ばれた熊野と琉球の関係を表するものだとおもしろい。
もうひとつ。戸畔(トベ)という呼称の問題。戸畔(トベ)とは、刀自(トジ。戸主の転。戸口を支配する者の意。一家の主婦。(*2) におなじく、戸女(トメ)の「メ」が「ベ」 に転訛した言葉で、女性の族長を指す。これも津名氏が指摘するところだが、蔑視表現であるという。
「書紀」における表記「戸畔」の「畔」の字には、河畔・田畔など「ほとり・あぜ」の 意味の他に、畔逆(はんぎゃく)=「叛く」の意味がある(すでに中国の『史記』にそ の用語がみえる)。(*1)
丹敷戸畔は、古代以前に熊野を治めていた女性首長だ。過去の投稿でも触れた通り、強い霊力を持った巫女ではなかったか。その墓や塚などの伝承地は熊野灘沿岸、串本から尾鷲の楯ヶ崎までの約90kmという広域にわたって存在し、そこには何らかのモニュメントがあり、人々の祈りが続いている。丹敷戸畔は皇紀に登場する逆賊としてではなく、この地の人々の記憶に残り続ける地霊なのだ。フィジカルな支配−従属関係を目的とした男性原理の向こう側に、しなやかでしたたかな共存、共生の女性原理が垣間見える。これこそが熊野という地の魅力であり、本質ではないだろうか。
(2020年3月20日)
出典・参考
*1 「日本『国つ神』情念史3 トベ達の悲歌」津名道代著 文理閣 2018年
*2 「古語辞典」岩波書店
参考
「妹の力」柳田國男著 創元選書 昭和17年4刷
国立国会図書館デジタルアーカイブhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1460128
「日本の神々」谷川健一著 岩波新書 1999年