丹敷戸畔の墓:和歌山県東牟婁郡串本町二色


紀勢本線の串本駅から国道42号線を西に3km、海に面した小山の上に「丹敷戸畔の墓」と称する小さな石祠がある。丹敷戸畔は、日本書紀巻第三、神武東征の条にわずかに登場する熊野の女酋長である。出て来たと思ったらすぐに殺されてしまう上に、他に資料らしきものも見当たらず、まったく正体不明なのである。女酋長という触れ込み、ニシキトベという不思議な響きも相俟って、いたく想像を掻き立てられるのだ。


まず、日本書紀を見てみよう。「天皇独(ひとり)、皇子手研耳命(みこたぎしみみのみこと)と、軍を師ゐて進みて、熊野の荒坂津 亦の名は丹敷浦。に至ります。因りて丹敷戸畔というものを誅(ころ)す。時に神、毒気を吐きて、人物(ひと)咸(ことごとく)に瘁(を)えぬ。是に由りて、皇軍(みいくさ)復振(またおこ)ること能はず」(*1) 


古事記にはその名すら出てこない。大きな熊(カミ)とだけ記されている。「かれ、神倭伊波礼毘古命、其地より廻り幸(いでまし)して、熊野村に到りましし時、大熊髣(ほのか)に出で入りて即ち失せぬ。ここに神倭伊波礼毘古命、儵忽(たちまち)にをえまし、また御軍も皆をえて伏しき」(*2)


丹敷戸畔のトベとは、刀自(トジ。戸主の転。戸口を支配する者の意。一家の主婦。*3)におなじく、戸女(トメ)の「メ」が「ベ」 に転訛した言葉で、女性の族長を指す。日本書紀には、荒坂の津に至る前にも名草邑(和歌山市名草山あたり)で「名草戸畔といふものを誅す」とあり、こちらもトベである。管見では天皇を除いて古代豪族に名の見える女性族長はほとんどいないと思われるが、紀伊には多くいたのだろうか。ところで、ニシキトベ は「縄文時代の女酋長」と紹介され、毒ガスを吐いたとされることが多い。いくらなんでもこれは盛り過ぎか。いったいどこから縄文時代が出て来るのだろう。また、酋長というのもインディアンとかアマゾネスを思わせるいささか捩れたイメージを想わせる。では、毒ガスはどうだろうか。神武一行は熊野に上陸した後、丹敷戸畔率いる土地の部族に阻まれ、毒気を吐かれて「をえる」(病み疲れる)とある。丹敷戸畔の「丹」は辰砂、硫化水銀であり、熊野に鉱山が多い事からすると、鉱毒にやられたと考えることが出来るかもしれない。


前置きが長くなった。丹敷戸畔の墓のある小山の麓の駐車スペースに車を停め、戸畔の森 登り口と記された標識に従って階段を登る。ほどなく山頂へ。照葉樹の森の中を進むと開けた場所があり、奥に小さな石祠が少し傾いだ態でちょこんと佇んでいる。まわりに丸石やサンゴが供えてある。地元の漁民が奉納でもするのだろうか。海の熊野らしい風景だ。

それにしても、事前に描いていた毒を吐く熊のような女酋長のイメージとは随分とかけ離れた慎ましさだ。だが、墓であるかどうかは別として、熊野灘を望む海辺の小山の山頂にひっそりと祀られているのを見ると、ヒロイックな趣を感じる。海をわたってやってきた侵略者に対して果敢に立ち向かう、いわばジャンヌ・ダルクのような存在だったと僕は思いたいのだ。



実は丹敷戸畔を祀る場所は、僕が知る限りもう一か所ある。熊野三所大神社の境内社として、社殿の右側に祀られているのである。石宝殿のような祠は先の墓とは異なり、威風堂々として見える。同地はかつての浜の宮王子跡であり、境内には神武天皇頓宮跡の石碑が立つ。




ところで、日本書紀の荒坂津、丹敷浦とはいったいどこを指すのだろうか。比定される場所は五か所ほどある。北から見ていこう。①三重県度会郡大紀町錦。ここはニシキという地名から。②三重県熊野市甫母町(二木島)。ニキシマがニシキに転訛。本居宣長の考証による。③和歌山県新宮市三輪崎。神邑(みわむら)を三輪と読み替え、有志が昭和45年に荒坂津神社を創建。④和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字勝浦。ここが熊野三所神社である。⑤和歌山県東牟婁郡串本町二色。字名はニシキであり、丹敷戸畔の墓の所在地だ。


神武一行は丹敷浦のエピソードのあと、八咫烏に導かれて熊野の山中を宇陀に向かうのだが、上陸後の道のりを考えて妥当なのは、やはり④の勝浦あたりではないかと思われる。いずれにせよ伝承地が紀伊半島東南の沿岸部の広域にわたるということは、丹敷戸畔がかなり広い地域を治めていたことを表すのではないだろうか。資料がないと記したが、紀伊続風土記含めて地誌を丹念に当たり、現地の古老に話を聞けば、もっといろいろなことがわかるかもしれない。それはまたいずれにしよう。


丹敷戸畔で思い出すのは、与那国島を統治したサンアイ・イソバだ。15世紀末の女傑で、巨躯怪力で知られ、島を統治していた。琉球王国の侵略に徹底して抗し、自治を守り抜いたとされている。租納という集落にはティンダハナタという岩山の物見台があるが、サンアイ・イソバはここを拠点に海を睥睨し、絶海の孤島に近づく外来者に目を光らせていたという。余談だが、租納にはその名も「女酋長」という居酒屋があるくらいで、イソバは今も島の人々に愛されている存在である。巫女でもあったというが、祭政一致の時代において、巫はきわめて重要な意味をまとう。卑弥呼然り、倭迹々日百襲姫然り、神功皇后然りで、いずれもシャーマンである。丹敷戸畔も同様ではなかったか。巫術には明るくないが、毒気を吐くという行為も巫術を弄したということだったのかもしれない。


歴史は常に強い者によって塗り替えられる宿命にある。抗うものは賊として殺されるのだ。血塗られた戦いの積み重ねこそが歴史であり、神々も同様である。だが、賊であろうが土蜘蛛であろうが、その土地に永く住まう人々にとっては、より古い神こそが地霊であり、地母神なのである。それこそが、今日まで丹敷戸畔の伝承を永らえさせているのだと思う。


丹敷戸畔の墓の前に佇み、いにしえのこの地域を治めた、強靭な心身を持っていたであろう巫女の無念にしばし想いを馳せてみる。早春のやわらかな風が、くねる若いスダジイの枝と葉を揺らしている。


(2019年3月28日)


出典

*1:「日本書紀 (一)」岩波文庫

*2:「古事記 (上)」講談社学術文庫

*3:「古語辞典」岩波書店