井草八幡宮:東京都杉並区善福寺1-33-3
灯台下暗しなのだが、自宅から歩いて三分のところにも聖地がある。調べていくと東京の中でもかなり、いやもっとも古い聖地のひとつではないかと思わせる場所なのだ。旧石器時代から集落のあった複合遺跡で、縄文時代早期の土器が出土し、標式遺跡にもなっている。JR中央線西荻窪駅から北に徒歩二十分、青梅街道と早稲田通りが交差するこのあたりは一見どこにでもある郊外の住宅地に過ぎない。だが、毎週日曜日の8kmほどの僕のジョギングコースには、見るべきところがたくさんある。まずは、井草八幡宮に行ってみよう。
ご覧いただいた通り、都内の神社ではかなり広い境内で社叢も鬱蒼としている。井草八幡宮は別表神社だ。これは意外だったのだが、東京都の別表神社十一社の内、明治神宮、東京大神宮、乃木神社、東郷神社は明治以降の創祀なのでこれを除くとして、残る七社の中で縄文期に遡ってなんらかの祈りがあっただろうと推定されるのは当社と、同じく善福寺川沿いにある大宮八幡宮だけだ。それぞれ旧石器時代から古墳時代、縄文時代から弥生時代にかけての遺跡であり、一帯が古代以前からの聖域であったことが神社の創祀につながったと思われる。
参道は途中、右に折れて続く。両側に二基の石燈籠が立つ。区の有形民俗文化財で富士講の名残だ。境外の駐車場の脇にも浅間神社と富士塚が残る。杉並区唯一の富士塚である。案内板には「井草周辺では昔の村名である「遅乃井」の頭文字をとって「丸を講」という講が戦前まで続きました。以前は本殿西南屋形にあったもので、昭和五十年に現在地に移築され、塚前の浅間神社より丁度西方遥か遠くに富士山を仰ぐことが出来る位置にあります。旧塚の跡地には小御岳石尊大権現(通常、富士塚の五合目に置かれる)や庚申塔などの石碑が昔日の面影を残しています」井草民俗資料館、とある。
石燈籠の先、すぐ左手を入ると朱の楼門。櫛磐間戸神と豊磐間戸神の二神が護る。「古語拾遺」の天照大神の岩戸神話に登場する御殿の窓の神で、外敵侵入を防御する機能を持つという。
楼門をくぐると境内の真ん中あたりにひょろっとした松の木が一本。源頼朝公御手植の松だ。奥州藤原氏の征討に向かった頼朝は当社で戦勝祈願を行い、平定の後に報寶として、雌雄の松を自ら植えたと伝えられる。残念ながら明治時代に雌松が、昭和四十七年には雄松が枯れてしまい、現在は二代目の松。雄松は樹齢八百年、樹高約四十メートル、幹回り五メートルの巨樹で、東京都の天然記念物だったそうだ。
手水舎の前には、祓戸社、そして春日・天照・天神の三神を祀る三宮社の小祠。社務所の横には三峯神社を真ん中にして左に三谷稲荷、右に新町稲荷、と末社が配される。向かいの樹の根元には富士講の名残である小御嶽石尊大権現と正守庚申の石塔が立つ。
本社に参拝する。廻廊のある拝殿は大層立派なものだ。かつて僕は大病をした時に昇殿して病気の平癒祈願をしてもらったことがあるが、鈴や拍手の音が拝殿内部に響き渡り、音響的にも優れた構造であることがわかった。その奥の本殿は覆屋に覆われて様子がわからないが、江戸時代前期に造営されたもので、区内で最古の木造建築だという。
だが、僕が好きなのはなんといっても本殿の背後に広がる社叢だ。禁足地ゆえか手入れをされている様子もなく、多様な樹木が思い思いに枝葉を伸ばしている。瑞垣の外から中を窺うとそこは正に神坐す空間のようで、都市部の密集する住宅地の中にあって、これはたいへん貴重な場所だとあらためて思う。余談だが北参道の入口にある鳥居は犬が怯えてくぐりたがらないという話を近所の美容室の店主から聞いたことがある。犬も聖性を感じ取ることが出来るのだろうか。たしかに、早朝や深夜にこのあたりを通ると僕も一種の霊気のようなものを感じることがあるのだが。
室町時代以降の社記も写しておこう。
「(前略) 室町時代には太田道灌が石神井城の豪族豊島氏を攻めるに際して、当社に戦勝を祈願したと伝えられています。江戸時代になると三代将軍家光より朱印領六石が寄進され、こののち歴代将軍何れも朱印地を寄進して萬延元年にまで及んでいます。この地域の地頭であった今川氏も当社を深く崇敬し調度品などを奉納し興隆に努め、寛文四年(1664)に寺社奉行の命により改築した本殿は、現在では杉並区内では最も古い建築物です。(後略)」
さて、井草八幡宮を出て、善福寺公園に向かう。武蔵野の面影をよく残すところで、善福寺川の水源であり、道路を挟んで上池と下池に分かれている。上池のほとりには井草八幡宮の境外摂社、市杵嶋神社が鎮まる。これも前述の通り、源頼朝に因む。(そもそも江島神社に弁財天を勧請したのは源頼朝だ)
「この島に鎮座する社は、市杵嶋神社といい、祭神は市杵嶋姫命です。当社は江戸時代、善福寺池の弁才天と言われ。『新編武蔵風土記稿』には「池の南に弁天の祠あり。一尺(約三十センチメートル)四方にて南に向ふ。本尊は石の坐像にて、長八寸(約二十四センチメートル)はかり」とあります。また寛永年間(1624〜44)には、それまで祀られていた右手奥の島から現在地へ移されたといわれ、それ以降、その島を「元弁天」と云う様になりました。「善福弁才天略縁起」によれば、この地域の旧名「遅の井」の地名譚(源頼朝が奥州征伐の途時この地に宿陣し、飲水を求めて弓筈で各所を穿ちましたが水の出が遅く、弁才天を祈り、やっと水を得た)に倣い、建久八年(1197)に江ノ島弁才天を勧請したのが当社の始まりとあります。干魃の折には区内はもとより、練馬・中野の村々からも雨乞い祈願に参りました。雨乞い行事は、池水を入れた青竹の筒二本を竹ざおに吊るして担ぎ、その後に村人達が菅笠を被り、太鼓を叩いて「ホーホィ、ナンボェ〜」と唱えながら村境を巡りました。また氏神の前に井戸水と池水を貼った四斗樽四個をすえ、四方に散水しながら祈ったともいわれています。この様に干魃の年毎に行われてきた雨乞いの行事も、昭和二十四年(1949)を最後に見られなくなりました。例祭日は四月八日です」杉並区教育委員会 ついこの前まで雨乞いをやっていたのだ。嬉しくなってしまう。
さらに下池のあたりに行くと、縄文時代の暮らしを想わせる風景に出会える。水面にたくさんの蓮の花が浮かんでいる。風がそよぎ、樹々の枝葉を揺らす。あたりでは野鳥が囀っている。池畔に佇んでいるだけでうっとりとするのだ。
いかがだろうか。もし興味をお持ちなら当地を訪れてみてほしい。アクセスは、JR中央線荻窪駅北口から関東バス(荻30・32・34・36系統のいずれか)に乗り、井草八幡宮で下車。三時間くらいかけてゆっくり散策するとよいだろう。東参道の大鳥居の向かいには、青梅街道を挟んで鰻の名店「うな藤」がある。日本酒の品揃え、酒肴も充実しているし、なにより鰻もご飯もふっくらとしていて、たれはあっさりめ、非常に美味い。帰りに是非きも焼き、ひれ焼きで一杯やることをお勧めしたい。お参りの後の一杯できっと幸せになる筈だ。なんだか地元の観光ガイドのようになってしまった(笑)
井草八幡宮の創祀は不明だ。だが、冒頭に述べた様に古代以前に遡ることは間違いない。当初祀っていた春日神も、現在の祭神、八幡神も後からやってきた神々なのである。植島啓司氏の定義によれば、聖地は祀られる対象が上書きされても、その場所自体は微動だにしないという。だとするならば、この地の聖性を象徴するものはいったいなんだろうか。とくに本殿裏の深い杜がずっと気になっている。僕は古代以前にこの地を治めていた族長の葬所があった(今も発掘すればあるかもしれない)のではないかと思う。この杜に、遥か昔にこの地に暮らしたであろう祖先神が未だ眠っているとした方が鎮守らしくてよいではないか。
参考
「古語拾遺」斎部広成撰 西宮一民校注 岩波文庫
「聖地の想像力ーなぜ人は聖地を目指すのか」植島啓司著 集英社新書
うな藤:東京都杉並区今川4-8-7グリーンパレス 03-3397-9174
確実に食べたいのであれば予約のこと。きも焼きとひれ焼きは予約必須です。