池生神社:長野県諏訪郡富士見町境池袋7241-1
何度目の諏訪になるだろうか。勤務先の工場があり、入社してこのかた幾星霜、当地には何度も仕事で訪れている。御柱祭の話は地域採用の工場の人たちから何度も聞かされていて、これほどまでに人を熱狂させる祭とは一体どのようなものかと関心はあった。だが、この地を本格的に意識しはじめたのは、聖地探訪をはじめたここ五年ほどだ。きっかけはミシャグチだったのだが、そこから洩矢神、千鹿頭神、天白神など記紀の神々の背後に隠れ、埋もれてしまった神々、そして縄文遺跡へと四方八方に関心が広がっていった。琉球弧、熊野、出雲に並んで、僕にとっての至高の聖地のひとつとなったのだ。とにかく訪れる度に新たな発見や出逢いがある。汲めども尽きぬ泉の如く、めくるめく聖地なのである。ここで紹介する池生神社にはいずれ行きたいと思っていたが、今回の旅で訪れる予定はなかった。だが、岡谷市内の本屋の郷土史コーナーで購った地域誌にこの神社が取り上げられていて、宿で読んでいたら矢も盾もたまらなくなり、翌朝早く、仕事に向かう前に訪れたのだった。
池生(いけのう)神社は、中央本線のほど近く、段丘の上に鎮座する。縄文遺跡として夙に知られる井戸尻遺跡まで1kmと近いところだ。朝早くに訪れたが、既に中年男性の先客がひとり。アングルを変えながら頻りにカメラのシャッターを押している。この後も二人ほど同じような風体の男性が写真を撮りに来ていたので、知る人ぞ知る名所なのだろう。名所のゆえはおそらく桜だ。二の鳥居の背後に、参拝する者を出迎えるかのように桜の木が立ち並ぶ。その遠景はいかにも村の鎮守らしい慎ましやかさに溢れていて、心が和む。
境内は広くはないが、樹々に囲まれたオアシスのようだ。社名に見る通り、本来ここは池だったが、背後を走っていた旧中央本線の敷設で水脈が変わったのか、枯れてしまったとの由。池のあった頃を彷彿とさせる地形だからか、なにかにふんわりと包みこまれているようで、ここにいるとすごく落ち着く。熊野本宮大社の旧社地、大斎原に似た感じだ。
社殿は背後の段丘上にある。急勾配の石段をゆっくり踏みしめながら登る。参拝して覆屋の中の社殿を覗くと、紙垂を纏った真新しい榊が供えられていた。いまも地域の人々に大切に祀られていることがよくわかる。
境内左手には小祠が二つ。脇に石標が立つ。石に彫られた字は、御別當社だろうか。調べてみると、嘗て茅野市玉川の粟沢あたりにあった神社らしいことがわかった。当地に勧請された後、合祀に至ったのだろうか。僕の場合、別当といえば神宮寺だし、建志名神を祀るという話もあってすごく気になるのだが、ここで深入りするのはやめておこう。
少し長くなるが、当社の由緒を写しておく。
「長野県(信濃国)諏訪郡富士見町境池之袋区に鎮座する池生神社は、祭神池生命にして祖父神大国主命を、父神健御名方富命・母神に八坂刀賣命(諏訪大社)を戴く。池生命は祖父神の性を享け父神を補佐して県内の開拓に当たられた神として崇敬され、その神裔(子孫)は姓を神と称し、風神土候となり県内に散居し地方開拓の先達であったと伝えられる。当社の鎮座は、平安時代に遡るも詳細は不詳である。古来より池之袋村の産土神でありまた、諏訪大社権祝神姓矢島氏の祖神として崇敬されている。陽成天皇の元慶五年十月(西暦八八一年)それまで正六位であったのが従五位下に昇階された。この事は、徳川光圀著「大日本国史」の国史大系第四巻三代実録巻四〇の五〇〇頁に収録されている。また、江戸時代の高島藩検地野帳によれば、当社の位田が隣、四端村に接近する所にあり四端は神田の辺りからきたとも伝えられている。往時は、社地・社殿ともに荘厳にして境内に清冽満々たる神池があり、諏訪三辻の一つに数えられた高辻(相撲の土俵)があって近郷随一の祭礼があったと伝えられる。また、境内の藤の古木は、社の守護神として古来より大切にされてきた。その後、世運の推移と中央線開通による社地の減損などにより、今は僅かにその片容を止めるに至った。明治百年更始及び町史跡建碑の時になり、社歴を回録して聊か御神徳に答えんとするものである」
昭和四十三年三月三十一日建立
昭和五十六年三月三十一日再建
池之袋区中
平安時代に創祀された由緒ある神社だったのだ。当社の氏子総代あたりが起草したものだろうが、これ以上詳しいことは地元の古老にでも聞くしかあるまい。
さて、池生神社は、他に塩尻市宗賀、上田市小島、長野市北長池など県内各所に散在している。祭神はそれぞれ異なり、当社に同じく池生命を祀るのは北長池のみである。その池生命は、出雲を所払いされて諏訪に入植した建御名方命に連なる神である。佐久の新海三社神社も同様で、入植した開拓の祖神、興波岐命を祀っているが、父神は建御名方命、祖父は大国主命だ。このような孫神は、諏訪を中心として広域に広がるものと思われる。ここで詳しい考証はしないが、彼、若しくは彼らは、諏訪の地に鉄と農耕をもたらし、それぞれが開墾に携わったのだろう。池生神社の境内は永らく湧水地だった。農耕、或いは人が生きていくために欠かせない、もっとも大切なものは水だ。となると、竜蛇神に話が及ぶが紙幅が尽きた。このあたりで筆を措こう。
諏訪の人は、どんな神を祀る場所にも必ず御柱を建てる。御柱の上に桜が咲いている。やはりここはとても好いところだ。
(2019年4月20日)
参考
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諏訪大社と諏訪神社 from 八ヶ岳原人「七社明神社と御別当大明神」