祓戸王子:和歌山県田辺市本宮町祓戸1077
大斎原:和歌山県田辺市本宮町本宮1
熊野本宮大社の大鳥居前は、きょうも大勢の観光客で賑わっている。外国人もかなりいて、言葉を交わしているのをそれとなく聞いていると、中国語、英語、フランス語、スペイン語と、実にいろいろな国から訪れていることがわかる。熊野を訪れる外国人は総観光客数の13%とのことなのだが、それ以上いるように思える。日本の世界遺産は21ヶ所あり、観光客数のランキングをみると京都、奈良が圧倒的だが、「紀伊山地の霊場と参詣道」も年間約350万人、5位に位置している。田辺市本宮町だけに限っても、平成30年度で総数161万8,959人(宿泊119,759人、日帰り1,499,200人)と、人口2,761人の町に586倍もの観光客が押し寄せているのだ。世界遺産効果と云えばそれまでだが、日本の中でも陸の孤島(すみません^^;)と言われる当地にこれだけの人が押し寄せるのだから、やはりすごいことだ。その熊野本宮大社だが、大鳥居から参道を上って社殿に参拝するだけというのではいかにも勿体ない。徒歩圏内にも興趣をそそられる聖地がたくさんあるのだ。
まずは祓戸王子。本宮の裏手にある。中辺路、小遍路を歩いてくるとこの祓戸王子が最後の王子となり、その先に本宮に通ずる鳥居がある。僕が初めて訪れた時は、なぜかカーナビが本宮の裏手を目的地としてしまい、民家の軒先の駐車場に停めたものの、ここが本当にあの熊野本宮大社なのかと訝しく思ったのだ。が、往時の本宮は現在の旧社地、大斎原であり、祓戸王子を過ぎて眼下に本宮の社叢を見ながら山を下り、手前の音無川を渡っていくわけで、これが正式な参拝ルートだったことに後で合点がいった。祓戸王子は、正に至高の聖域に入るための潔斎の場なのだ。
裏手ということもあって、観光客はほとんどいない。いても熊野古道を歩いてきたハイカーが「これは一体なんだろう」と横目に見ながら通り過ぎていくだけだ。しかし、よく目を凝らしてみると少なからず聖性を帯びた場所だということがわかる。こんもりと、というほどではないが、樹叢の中に石祠があり、その構えも凛としている。今は宅地の中にあるが、熊野詣が盛んだった中世は鬱蒼とした森で、沖縄の御嶽に同じく祠などなかったものと思うのである。
本宮を参拝した後は、旧社地の大斎原に向かう。ここはいつ訪れても清々しくて、とても気持ちのよいところだ。熊野川、音無川、岩田川に囲まれた中洲にあるが、明治22年(1889年)の夏の大水害により、上四社の社殿は現社地に移され、いまここにはイチイガシの巨木の下に、倒壊した中四社と下四社、境内摂末社を合祀した石祠が二基あるのみだ。だが、その「なにもない」ことが、かえって深い意味をもたらしているように思う。朝早く行けば人がおらず、その聖なる空間をひとり堪能できる。多くの人はここにいるとたいへん穏やかな、そして澄んだ心持ちになるだろう。そして、人智の遠く及ばない何かに包まれているような気にもなるだろう。
本宮の神域と大斎原の中は許可なき写真撮影が禁止されているので、熊野川の河原から写真を撮影してみる。あらためて写真を見ていると、ここは元々巨大な御嶽のような場所だったのではないかと思ってしまうのだ。さらに、熊野本宮并諸末社圖繪に描かれた全景を見てみよう。困ったことに、そこに描かれた本宮は、女陰そのもの姿形なのである。不埒な見立てをしてそういうのではない。俯瞰した絵図なのだが、恐らくこれを描いた絵師は確信犯的に女陰に擬えた構図で描いたのではないか。
熊野本宮并諸末社圖繪 出典:熊野本宮大社公式ホームページ宝物殿ご案内
http://www.hongutaisha.jp/tresure/
たとえば、沖縄の亀甲墓の甲羅にあたるぽっこりと膨らんだ部分を妊婦の肚に擬えるが、遺骨の入った甕はこの肚の正面下部、女陰にあたる入り口から中に収められる。門中墓とも言われるこの同族墓は、何代もの祖先が眠る小宇宙なのだ。そして同様の死生観が当地にあったかもしれないと思うのである。即ち、死んで行く場所と生まれて来る場所の双方を統合する場所だ。僕は浅学甚だしき一介の旅人に過ぎず、これらはまったくの妄想なのだが、そう考えざるを得ない論考に負ってもいるので、孫引きになるが仏教民俗学者五来重の一文を紹介しておきたい。
宮本常一氏の『吉野西奥民族探訪録』によると、十津川筋の大塔村の項で「記憶に間違ひさへなければ、辻堂あたりではずつと以前は死体を川原に持つて出て、砂礫の中に埋め、上に小石を沢山載せておいたやうにも聞いた」としるしているが、これは記憶違いではなくて吉野川や日高川でも現におこなわれていることである。これはまさに水葬の変化で、私はそうした水葬死体というものが流れ寄ったところに叢祠がまつられ、神社化する可能性は大いにあるとおもう。熊野本宮の旧社地と新宮の現社地の大樹叢が、熊野川の河原に突出した大砂州であったことは、那智の補陀落渡海に関連して、思考の片隅において良いことである。
加えてもうひとつ。沖縄出身の民俗地理学の泰斗、仲松弥秀は、沖縄の御嶽についてその多くは村落の遠い祖先の葬所であったと述べている。御嶽の深い森は「腰当(くさあて)の森」と呼ばれるが、仲松によれば「腰当」とは、幼児が親の膝に坐っている状態と同じく、村落民が祖霊神に抱かれ、その膝に坐って腰を当て、何らの不安も感ぜずに安心しきってよりかかっている状態を指すという。この状態を大斎原に我が身を置いた感覚と重ねると、通底するものがあるように思う。事の真偽は僕にはわかるべくもないが、森は遠い過去の記憶によって人間を安心させるものらしい。大斎原は地母神の宿る浄土ではなかったか。そして太古に堆積した「死」がこの場の聖性を強化していることは間違いなさそうだ。
(この項続く)
出典・参考
和歌山県ホームページ 平成30年 和歌山県観光客動態調査【速報値】
https://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/062400/doutai2_d/fil/H30tsuunen.pdf
熊野本宮大社公式ホームページ
「熊野詣−三山信仰と文化−」五来重著 講談社学術文庫
「神と村」仲松弥秀著 梟社