鵜戸神宮:宮崎県日南市大字宮浦3232
言わずと知れた鵜戸神宮である。昭和四十年代には、NHKの朝の連続ドラマ「たまゆら」の影響もあり、新婚旅行のメッカとなった。今もバスを連ねて大勢の観光客が訪れる、日南海岸きっての観光名所だ。主祭神は、日子浪限建鵜葺草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)。天孫、彦火瓊々杵尊(ひこほのににぎのみこと)の孫、彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと・山幸彦)の息子、そして神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと・神武天皇)の父にあたる。まずは、鵜戸神宮による由緒、沿革を写しておこう。
山幸彦(彦火火出見尊)が、兄(海幸彦)の釣り針を探しに海宮(龍宮)に赴かれ、海神のむすめ豊玉姫命と深い契りを結ばれた。山幸彦が海宮から帰られた後、身重になられていた豊玉姫命は「天孫の御子を海原で生むことは出来ない」とこの鵜戸の地に参られた。霊窟に急いで産殿を造られていたが、鵜の羽で屋根を葺終わらないうちに御子(御祭神)はご誕生になった。故に、御名を「ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと」と申し上げる。当社の創建は、第十代崇神天皇の御代と伝えられ、その後第五十代桓武天皇の延暦元年には、天台宗の僧、光喜坊快久が、勅命によって当山初代別当となり、神殿を再興し、同時に寺院を建立して、勅号を「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」と賜った。また宗派が真言宗に移ったこともあり、洞内本宮の外本堂には六観音を安置し、一時は「西の高野」とうたわれ、両部神道の一大道場として、盛観を極めていた。そして明治維新とともに、権現号、寺院を廃し、後に官幣大社鵜戸神宮にご昇格された。母吾の豊玉姫が御子の育児のため、両乳房をご神窟にくっつけて行かれたと伝える「おちちいわ」はいまもなお絶え間なく玉のような岩しみずを滴らせて、安産、育児を願う人々の信仰の拠り所となっている。又、霊石亀岩の背中に運玉を投げ見事にはいると願い事が叶うという伝えがある。このほか、念流・陰流の剣法発祥の地として、厄除・漁業・航海の守護神としての信仰は愈々篤く、今後とも神秘な冷気によって人々の魂を高めて行くであろう。
駐車場に車を停め、八丁坂参道を行こうとしたが、入口脇の土産物屋のおばさんに「雨の後は滑って危ないから新参道を行った方がいい」とアドバイスされ、興が削がれるとは思いつつも従うことにした。隧道を通り抜け、しばらく進むとやがて眼前に日向灘が広がり、断崖絶壁に沿って参道が続く。神門、楼門をくぐり、小さな太鼓橋を渡ると眼下に鳥居と洞窟が見える。石段を下りて海を見渡すと、奇岩、怪礁だらけで、その風景は訪れた者を飽きさせない。
由緒沿革に見る通り、ここは平安時代以降に両部神道の一大聖地となるのだが、明治の神仏判然令により別当寺であった仁王護国寺は廃寺となり、六観音を安置した本地堂はじめ、十八坊を数えた堂坊も毀却され、仁王門は焼かれた。その後、明治7年に鵜戸神社、同29年に鵜戸神宮に改称したのは冒頭の沿革の通りだ。修法も神式にあらためられたという。現在は仏教の跡形も感じられない。神仏分離が仏教界において如何に激烈な措置だったかが今更のように偲ばれる。だが、僕は長く続いた神仏習合の歴史をさらに遡り、弥生時代、或いは縄文時代にまで想いを馳せたい。
本殿に施された彫刻、彩色などはたいへんエキゾチックなもので、明らかに海洋、それも南方の香りがする。琉球の紅型を見ているようだ。社殿それ自体は後世に造られたものであるにせよ、そこには古代以前から人々の間に連綿と受け継がれた南方の海民文化が息づいているように感じる。豊玉比売が海神の娘であることや、その息子の鵜葺草葺不合命の誕生譚によらずとも、ここが元々海民の聖地とされていたことは容易に想像できよう。
今は記紀神話によって塗り固められているが、古は太平洋沿岸部に見られる海蝕洞窟に同じく、海民の生活の場に始まり、葬所となり、やがて祖霊信仰の場へと変遷を辿ってきたように思う。崖下の洞窟であれば、風葬や舟葬が行われていたかもしれない。本殿を正面に洞窟内を時計回りに巡ると、皇子神社、九柱神社、霊石、産湯跡、乳岩などあるが、それらはすべて後世に神話伝承を付会したものだ。それはそれで意味のあることなのだが、この場所の本質はやはり海に面した巨大な洞窟であること、その一点に尽きるのではないか。
ウドまたはウトは、ウツ(空)、ウロ(虚、洞)と通ずる言葉で、鵜戸はウドの「ウ」に鵜葺草葺不合命の「鵜」を当てたものだ。その鵜葺草葺不合命は日向三代の末代にあたるが、記紀ともにまったく事績がない。これはなぜだろうか。
当地を含む南九州一帯を根拠地としていた隼人は、7世紀末から8世紀前半(713年、716年)にかけて叛乱を起こし、大友旅人が率いる朝廷軍に721年に制圧されている。記紀の成立年代 (記712年、紀720年)は、このことにほぼ期を同じくしているのだが、ここであらためてその関係を見ると、隼人の中心であった阿多族の祖神は火須勢理命(海幸彦)であり、火遠理命(山幸彦)は対立する関係にある。海幸彦・山幸彦の物語の前段は南方に広く分布する釣針喪失譚だが、後段のくだりは隼人の叛乱と大和朝廷による制圧を暗示しているといってよいだろう。ここからは僕の妄想。鵜葺草葺不合命は、ヤマト王権と隼人との関係を正史において接合する上で、必要とされた神なのではないか。つまり、陸の神が海の神を従える物語と、神日本磐余彦(神武天皇)の生誕、そして後の東征を繋ぐ役割を持った神ということだ。およそ正史というものは作られるものだが、その巧妙さには感心させられる。
(この項続く)
出典・参考
「鵜戸さん その信仰と伝承[増補改訂版]」本部雅裕著 鉱脈社 2017年
「日本の神々-神社と聖地-第1巻 九州」谷川健一編 白水社 2000年
鵜戸神宮ホームページ
Wikipedia 鵜戸神宮
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%9C%E6%88%B8%E7%A5%9E%E5%AE%AE
「海民の日本史2 日本神話に見られる海洋性」西川 吉光著 国際地域学研究20巻 2017年3月