湯殿山神社本宮:山形県鶴岡市田麦俣六十里山7

 

「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」

 

松尾芭蕉は、元禄二年(1689年)旧暦六月八日(7月23日)に月山から湯殿山に下り、こう記している。「惣じて、此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍って筆をとゞめて記さず」。坊舎に戻り、別当代の会覚阿闍梨に求められて詠んだ一句が冒頭の句だ。

行者の法式とは「装束小屋、爰にて衣服を改め金銀銭其外所持の品を此所に置て、是より先の様子人に語る事を堅く禁ず」(諸州採薬記)という参拝の決まりのことだ。湯殿山神社本宮は今も撮影禁止で知られ、この法式に倣って神域に入らねばならない。

山形市内から一時間半。山形自動車道を酒田方面に進み、月山ICを下りて月山花笠ラインへ。途中を右折して湯殿山有料道路に入る。五月連休明けだが、山肌にはまだ雪が残る。11月上旬から4月下旬は雪で閉ざされているのだ。料金所を出ると巨大な朱塗りの両部鳥居が迎える。広い駐車場とレストハウスがあり、ここから本宮までシャトルバスが出ている。参拝客はゴールデンウィーク後の平日ということもあって疎らだ。バスは急坂をゆっくりと登り、ほどなく山の中腹の停留所に着いた。


湯殿山神社本宮は、出羽三山の一角を為す修験霊場で、奥之院とされる。古来社殿はなく、温泉の噴出する巨岩を神体とする。創祀年代は不明だが、社伝によれば羽黒修験の興りとされる崇峻天皇皇子、蜂子皇子が日本海にある由良の八乙女浦から上陸し、修行ののち、羽黒山に出羽神社を推古天皇元年(593年)に建てた。同年に月山神社、続く十三年(605年)に湯殿山神社が建てられたとしている。今は大山祇神・大己貴命・少彦名命の三神を祀るが、羽黒修験道が確立する遥か以前から、アニミズムの聖地として信仰されていたように思われる。


湯殿山神社本宮入口。この先は撮影禁止

バスを降りた左手の石段を上る。小さな小屋があり、ここに荷物を置き、裸足になる。祓所でお祓いを受けたあと、紙のヒトガタで身を払い、穢れをうつす。これで支度は完了だ。入口から結界の中に下りていく。途中、さきほどのヒトガタを沢に流すのだが、風が吹いてうまく流れてくれず、ひらひらと舞った挙句、またべたりと僕の服に貼りつく。何度か繰り返す情けない始末。体験抖擻などしようものなら、先達の山伏にぼこぼこにされるだろう。

ところで、この場には山伏と思しき神職が数人いるのだが、揃いも揃ってエラそうなのである。修行による自己への自信の現れなのかもしれないが、居丈高で今にも怒り出しそうなオーラをふり撒いている。参拝者に対する言動も粗野で突き放すような感があり、あまり気持ちのよいものではない。自己啓発セミナーの講師といえば、お分りになるだろうか。

さて、御神体の前に出る。目測で高さ5m、幅10m以上はある。写真を撮りたいところだが我慢。我が目に焼き付ける。その様子を描いてみたのが、下の線画だ。彩色もしておらず、かなり間抜けな絵だがご容赦願いたい。

赤褐色の巨大な岩塊が湯に濡れて、てらてらと光っている。赤い色は温泉に含まれる鉄分だろうか。とめどなく溢れる湯の様子はエロティックとしか表現のしようがない。どくどく、どくどくと歓喜の湯が噴き出し、岩肌をねっとりと濡らす。射精を我慢しきれない男根、或いは破水した妊婦の肚のようで、いまにも生命が迸る寸前の様相だ。正直に言って、この御神体は、衆人の下に晒すものではないように思う。それほどのエロス、根源的な生のありようなのだ。これを目の当たりにした古代の人々はその感性において、何を感じとっただろうか。婦女子であれば、あるいは失神したかもしれない。かつての女人禁制も、さもありなんである。

 

巨岩の左手から岩塊を巻くように上っていく。湯がどこから湧き出しているのかはよくわからないが、足下の湯の温かさで心地好く、癒されたような心持ちになる。岩の裏側を回りきると行き止まりになり、小さな展望台らしきスペースがある。下を覗きこむと轟々と音と飛沫を立て、梵字川からの奔流が落ちていくさまを見ることができる。ここから鉄梯子を下って30m程降りると滝壺がある。こちらは滝を神体とすると修験行場で、もちろん社殿はない。御滝神社と称されている。

御滝神社

羽黒修験道には「三関三渡」という擬死再生の行法が伝わる。羽黒山は現世利益を、月山は死後の安楽と往生を、そして湯殿山では蘇りを祈る。三山を現在、過去、未来に見立て、生きながらにして新たな魂として生まれかわることができる行とされている。

だが、江戸時代以前の湯殿山は三山のひとつではなく、総奥之院という位置づけで、羽黒山、月山のほか一山は鳥海山、或いは葉山とされていた。出羽三山は神仏習合の跡を色濃く残すが、湯殿山については蜂子皇子とは別に空海開基説がある。注連寺の社伝には「弘法大師が東北巡錫の旅に出られ酒田より赤川に『アビラウンケン』の梵字が光を放ち流くる様子を見て、赤川を上流への歩みを進め、梵字川に至り、この地に辿り着いた」とある。また、江戸時代初期まで無宗派であった出羽三山は、羽黒山の中興の別当、宥誉(後の天宥)により、徳川将軍家の庇護を受けるため羽黒山・月山を天台宗に改宗したが、この改宗に湯殿山は反発し、湯殿山派のみ真言宗として今に残った。こうして紐解いていくと、湯殿山は三山の中でも独自な存在といえるのではないだろうか。羽黒修験道は三関三渡に象徴されるように統合された信仰となっているが、僕は元々三山それぞれに山岳信仰が存在したように思う。そして、それら信仰はやがて都から追われた蜂子皇子という貴種に拠り所を求め、羽黒山中心に教派としての形を整えていく過程で、宗教的にも政治的にも庄内、村山地方の統合を進めていったのではないだろうか。

(2015年5月8日、9月26日)

 

出典・参考

「奥の細道」松尾芭蕉 岩波文庫

「日本の神々-神社と聖地- 12 東北・北海道」谷川健一編 白水社 2000年

湯殿山|出羽三山神社 公式ホームページ

http://www.dewasanzan.jp/publics/index/16/

日本遺産 出羽三山 生まれかわりの旅 公式WEBサイト

https://nihonisan-dewasanzan.jp/

湯殿山 注連寺 ホームページ

http://www2.plala.or.jp/sansuirijuku/