摩多羅神、赤山明神、新羅明神、牛頭天王、宇賀神…記紀や風土記には出てこない神々だ。その名すらご存じない方も多いだろう。それもその筈、古代日本には存在せず、多くは中世以降に渡来し、日本で変容を重ねた神々なのだ。先行研究はいくつかあったにせよ、中世神話の研究者、山本ひろ子氏が二十年前にその著書「異神」で光をあてるまで、これらの神々は歴史の画期の狭間に埋もれており、目を凝らしても僕たちの視界に入ってこなかったのである。およそ人が振り向かない物事に関心が向くのは僕の性分なのだが、掘れば掘ったで次々に面白いことに行きあたるのでやめられない。渡来神を祀る聖地もそのひとつだ。
新羅善神堂は、園城寺(三井寺)の守護神とされる新羅明神を祀っている。当の園城寺の境内にはなく、なぜか北に五百メートルほど行った先の丘の上にある。園城寺を出て、湖岸をしばらく行く。大津市役所の先を左に折れ、またすぐに左に入る。奥には壬申の乱で無念を喞った大友皇子、後に諡された弘文天皇の陵がある。その手前に立つ鳥居が新羅善神堂の入口だ。
弘文天皇 長等山前陵
鬱蒼とした森の中に参道がある。突き当たりの巨樹の前まで進み、右側を望むとそこは原っぱのように開けており、初夏の風に樹々の葉が揺れている。とても気持ちのよい場所である。三井寺は大勢の観光客で賑わっていたが、ここに人の気配はなく、ひっそりとしている。正面奥に鎮座するのが新羅善神堂だ。
脇に案内板が立つ。
「堂は三間四方の流れ造り。屋根は桧皮葺きの美しい建物で、国宝に指定されている。暦応3年(1339)足利尊氏が再建した。新羅明神は園城寺開祖智証大師の守護神で、本尊新羅明神坐像も国宝。源頼義の子義光がここで元服し新羅三郎義光となのったのは有名である」
元々は新羅神社、新羅明神と呼ばれていたらしいが、明治の神仏分離令で国に接収され、現在の名前にあらためられたという。
堂は瑞垣に遮られて格子の間から様子を窺うしかなく、全容がよく見えない。だが、そのつくりは禅宗様の影響を受けた非常にシックなものであり、慈照寺の銀閣を思わせる。
堂内には、これも国宝の木造新羅明神坐像が安置されているというが、本来は伝法灌頂を受けなければお目にかかれないもので、何度か公開されてはいるが、人の目に触れることが滅多にない秘神である。
さて、新羅明神とはいったいどのような神なのだろうか。「園城寺龍華会縁起」によると、天台宗寺門派中興の祖、智証大師円珍が唐からの帰途、 老翁が船中に現れて自ら新羅明神と名のり、教法加護を約したとされている。これだけではよくわからないので資料をあたってみたのだが、これまた非常にややこしい代物だった。園城寺の開祖は大友皇子の皇子、与多王、本尊は弥勒菩薩だが、新羅明神はどうやら6、7世紀の新羅における弥勒信仰が下敷きになっているらしい。袴田光康氏の論考(出典1)を引こう。
園城寺の由来に関する最も古い記述は 1062年に記された「園城寺龍華会縁起」である。それは新羅明神の海上出現譚、大友氏の氏寺創建伝承、教待説話(注1)という三つの要素から構成されている。それらに共通して見られるのは弥勒信仰であるが、特に教待説話において教待が、弥勒之化身として語られていることは特筆される。日本の仏教説話では、観音が化身する話が多く、弥勒が生身の人間に化身するという信仰は特異なものだからである。それならば「弥勒の化身」という発想はどこから齎されたのであろうか。それは 6、7世紀における新羅の弥勒信仰の影響を受けたものと考えられる。(中略)園城寺の伝承は 円珍を由来譚に取り込む中で、弥勒の護法神を円珍の護法神へと変換し、更に円珍と護法神の関係を神功皇后と塩土老翁に重ねることで、新羅明神を護法神から護国神へと据え直していったのである。新羅明神という異国の神の名も、新羅の神を祀ることで新羅の外患を調伏することを期したからであると考えられる。その意味では 新羅明神は、円仁派の赤山明神に対抗する神などではなかった。新羅明神は、新羅の山神に起源を持ちながら 自らの故郷である新羅の神々に対抗するという矛盾した役割を負わされた神である。それは、外来の神を日本の護国の神として仏教的に習合していく平安仏教の国風化の中で、新たに生み出された神であったとも言えるだろう。
諸説あるのだが、もっとも説得力のあった説は上記のようなものだ。園城寺の古名は大友村主寺だが、大友氏は当地一帯を治めていた渡来系豪族であり、新羅の祖神を祀ったとしてもおかしくはない。また、中興の僧、円珍自身が、新羅系渡来人の末裔だったとの指摘もある。園城寺はその創建の頃から新羅と深い関わりを持っていたのである。
さて、最後に新羅明神の坐像をお目にかけておこう。残念ながら僕は実見していないが、写真を見るだけでも非常にインパクトがある。はじめて目にした時は、これで神像かと思わず仰け反った。数多ある仏像、神像とは明らかに毛色が違う。怪しげで俗臭芬々とした、人を小馬鹿にしたようなその風貌に接すると、なんだかいけないものを見てしまったような気になる。そして僕は、この像が堂の中に鎮座していることを想像するだけで、楽しくなってしまうのだ。赤山明神や摩多羅神、役行者の像容と共通するものがあるらしいが、それはまた別の機会に触れることにしよう。
木造新羅明神坐像(出典2)
新羅善神堂には、鳥居はあるものの、注連縄、狛犬、燈籠、手水鉢、鈴緒、幣帛、賽銭箱、その他神社にある設えは一切ない。だからなのか、この場には一種の潔さとどこか異国めいた聖性を感じる。もしかすると、大友氏は園城寺創建以前にもこの地に新羅の祖神を祀っていたかもしれない。往時の当地はもっと深い森で、もちろん社殿などはなく、たとえば済州島の堂(タン)のような場所だったように思えるのだ。
(2017年7月9日)
注記
1:教待
説話上の僧。近江の天台宗園城寺にひさしくすみ、貞観元年(859)伽藍建立の適地をもとめて同寺にいたった円珍を旧知の人のようにまちうけ、檀家の大友都堵牟麿とともに寺の再興を委嘱し、たちまち姿をけした。ときに162歳という。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)
出典
1:「平安仏教における新羅明神―園城寺の由来伝承と新羅の彌勒信仰―」袴田光康
科学研究費基盤研究(C) http://210.101.116.28/W_files/kiss9/59800253_pv.pdf
2:三井寺秘宝展図録(平成2年8月7日~9月16日)
参考
三井寺ホームページ http://www.shiga-miidera.or.jp/index.htm
「神社の起源と古代朝鮮」岡谷公二著 平凡社新書
「闇の摩多羅神−変幻する異神の謎を追う−」川村湊著 河出書房新社