天白七五三社:長野県茅野市ちの3341付近
天白といえば、名古屋市の住宅地として知られる地域だが、ここで扱うのは、天白神の話である。柳田國男は「石神問答」の中でこの神について少し触れているが、なにしろあのミシャグチ以上によくわからない厄介な神で、神名も信仰の対象もさまざま、その由来にも諸説あり、未だ決着を見ていないようだ。分布は、西は伊勢、志摩のあたりから東は岩手まで広域に広がりを見せ、とりわけ長野、静岡あたりに多いという。社殿を構えたいわゆる神社は少ない。町はずれの片隅、山あい、川沿いの小さな祠にそっと潜んでいるのだ。古い路傍の神であるがゆえに、僕はどこか愛着めいた心情を抱く。
天白についてのまとまった論考は、1977年に中日新聞に連載された山田宗睦氏の「天白紀行」が手に入れやすい。近年、増補改訂の上、文庫にまとめられ、人間社という気骨ある書肆から刊行された。これに先行するのが茅野市宮川の在野の研究者、今井野菊さんだ。まるで憑かれたかのようにミシャグチの踏査を行い、研究成果を世に問うた方で、天白についてもかなりの数の場所に赴き、郷土史家を訪ね、文献を丹念にあたっている。その足跡を知れば知るほど頭の下がる思いがする。この人は、元々は研究者ではなく、茅野市宮川で寒天屋を営んでいた女将さんである。
天白七五三社は、中央本線茅野駅の西側、駅前の諏訪大社上社の大鳥居から歩いて五分ばかりの住宅地の中にある。このあたりは昔から蟹河原と呼ばれた地で、縄文時代から平安時代にかけての複合遺跡があり、竪穴式住居跡や土師器が発掘されている。諏訪の地は稲作農耕以前から複数の氏族が群雄割拠しており、一帯は蟹河原の長者と呼ばれる氏族が治めていたようだ。今井野菊さんによれば、蟹河原には八ヶ岳山麓の権力を一手に収めていた「矢つか雄神」、通称蟹河原長者が土着していた。彼らは国津神の洩矢神であり、この地に侵入した建御名方命に抵抗して戦い、敗れた。この時、蟹河原長者は建御名方命に自分の娘を奉じたが、その娘が八坂刀売命、諏訪大社下社の主祭神である。そして、彼らが祀った神が天白神だ。
上蟹河原遺跡
駅前の大鳥居をくぐり、道なりにしばらく行くと段丘崖になっている。家屋の間を縫うように下る。崖下には発掘中なのか青いビニールシートに覆われた土地があり、脇に清流が流れている。清流を挟んだ向かい側は畑地だ。ちょうど菜っぱを収穫していた方がいたので、声を掛けてみる。この地域に伝わる在来の品種で、横内菜と呼ぶらしい。八百屋では売っていないとのこと。秋から冬にかけて収穫するという。「昔は地域の人が総出でね、収穫した菜っぱをこの小川で洗ったんです。それはもう賑やかなもんだった」と目を細めた。
この小川沿いを先に進み、町中に入る。他の方向から来ると道が入り組んでいて少しわかりづらいが、歩き回っていればすぐにそれらしき空地が目にとまる筈だ。小祠が三つ点在している。だが、天白神を祀る祠がどこなのかがさっぱりわからない。向かって左には石壇の上に鳥居、石灯籠、そして石祠。三つの中では設えがしっかりしている。
その右側には、二本の木に挟まるように小祠。こちらを窺っている。どうやらここが天白を祀っている場所のようだ。天白七五三(しめ)社と称し、蟹河原長者の屋敷跡だったとされているが、この中では祀られた時期がもっとも古いように思われ、小祠ながらも独特の存在感を感じる。天白七五三社
さらにその右手に鳥居。こちらは横を向いている。その奥、少し高いところに隠れるかのようにまた小祠。こちらは御左口神(ミシャグチ)を祀っているようだ。
ここに坐す神は、しかつめらしい神々というより土地の人々を見守る精霊たちのように感じる。初秋の陽光の中、祠のまわりをはしゃぎながら跳び回っている、そんな夢想をしてみる。この付近には、達矢酢蔵神社、大天白社など、他にも天白を祀る神社や祠があり、往時の蟹河原長者と天白神の結びつきが伺いしれる。
さて、天白の由来には、星および方位神(天一神・太白神)、風の神、風水除の神、十二山の神(狩猟民の山神)、戸隠修験、天ノ白羽神など諸説あるようだが、天白を数多く訪ね歩き、綿密に考証した今井野菊、山田宗睦の両氏の見解は、ほぼ一致しており、その興りを天ノ白羽としている。「天白紀行」から山田氏の説を紹介しておこう。
「わたしの説は、天白の起源を伊勢土着の祖神で機織りの神だった天ノ白羽にもとめる。起源はそうだが、同時に苧麻を栽培した北勢の員弁の地で、天白は治水農耕の神でもあった。天皇王朝が、七世紀末の天武・持統期に東日本の統一に着手するにつれて、伊勢・信濃は東国への前進基地の役割をもたされた。東海道、東山道から、信濃、関東へ。これにつれて、麻績氏や員弁氏が、伊勢から三河、伊那谷、諏訪へと移動した。これにつれて天白神も北上し、諏訪神社の前宮の即位式にあらわれることになる」。松坂には、麻績氏が奉斎した天ノ白羽を祀る神麻績機殿神社がある。
神麻績機殿神社天白神は、記紀に登場する神々のように出自から派生して、各地に勧請された神ではない。人が移動する過程で、その地の庶民の祈りや願いを纏いながら、静かにゆっくりと旅をする。その地に足跡を残し、そしてまた旅に出る。だが、足跡を残せど、より力の強い神々が現れるとその座は譲り渡すことになる。やがて土地に埋もれ、人々に忘れ去られ、名前も歪み、最後は小さな祠ばかりがぽつんと取り残される。
現代は様々な物事が極めて短い時間のうちに塗り替えられていく。そのスピードをキャッチアップせねば、生きることさえままならない。だからこそ、僕たちはかつてそこにあった人々の生活や信仰の記憶を残していく必要があるのではないか。今井野菊さんが1971年に著した「大天白神」には、全国の天白の分布は三百余りと記録されている。そのこと自体すごいことだが、ふと思う。半世紀近く経ったいま、天白はいくつ残っているのだろうか。
(2016年9月30日)
参考
「天白紀行」山田宗睦著 人間社
「古諏訪の祭祀と氏族」古部族研究会編 人間社