志賀海神社:福岡県福岡市東区志賀島


車のまわりは本州に向かうと思われるトラックだらけだ。10トンを超える大型トラックに四方を囲まれ、視界が狭い。まるで函の中に入れられているかのようだ。車線を変えるのも難儀したが、なんとか左折して海の中道に入ると、車の数は大きく減った。博多から車で三十分も走ればもうそこは志賀島だ。島の入口に海鮮レストランがあったので腹拵えしてから島を巡ることにする。三月なら鰆だろう。刺身の定食にした。


海の中道に橋が架かったのは昭和六年。それまでは潮が引けば砂州が現れて志賀島と繋がったらしいが、満ちれば舟で渡っていたのだろう。陸と分断されると固有の文化は残りやすい。半ば陸地と隔絶されていたがゆえに、天明年間に地元の百姓が発見するまで、1600年もの間、例の金印が埋れていたと見る事も出来よう。


志賀島は古代の海民で北部九州の沿岸を治めていた阿曇族の根拠地であり、かつての志賀海神社は阿曇族が奉斎した祖神を祀っていた。現在の祭神は綿津見三神、すなわち底津綿津見神、仲津綿津見神、表津綿津見神だ。伊邪那岐大神が黄泉国から逃れ、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原で禊ぎを行った時に生まれた三柱だが、古事記には「この三柱の綿津見神は、阿曇連等が祖神ともちいつく神なり」と記されている。

本社は島の南側にある。先の海鮮レストランの真向かい、勝山と称する小山の麓だ。参道の石段を上っていくと石橋と楼門があり、これをくぐると右手に社殿、傍に一万本以上の鹿の角を収める鹿角堂、神功皇后の三韓征伐を導いた阿曇磯良(あずみのいそら)に因む亀石、境内社の磯崎社や今宮社、宝篋印塔など見所が多いのだが、ここでは触れない。というのも、場の聖性を物語る場所はこの島の北側にあるからだ。それらは神名に呼応しており、今も表津宮(うわつぐう)、仲津宮、沖津宮として存在している。


この三社は島の北西部、勝馬の集落に固まってある。表津宮は現在の本社だが元宮があり、浜幸屋という名の料理屋の向かいに看板が立つ。脇に入っていく道がある。沖縄の離島の、名も知れない御嶽を訪ねるような感じだ。森の中を進む。すぐに祭場と思しき場に出た。


元宮なので、今はここに神はいない筈だが、本社よりもこの場の方が明らかに神の気配がする。樹々の間からさっと風が吹き、気づくとそこに神がいる。姿などあるわけもないが、なにもないこの場に神の影を見たような心持ちになるのだ。この島に住んでいる人々、たとえば、向かいの料理屋の仲居さんはこうした感覚を覚えたりするのだろうか。これは聖地巡りに狂った僕の夢ではないのかなどと思いながら、仲津宮に赴く。

仲津宮は古墳だ。発見されたのは平成六年。竪穴型の石室が見つかり、須恵器、鉄製武器、装飾品などの副葬品が出土した。古墳時代後期、七世紀前半の当地の首長の墓という。社殿は小高い古墳の真ん中に立つ。鳥居をくぐり、回り込む。低く唸る人の声のようなものが微かに聞こえてくる。なんだろう。社殿の左奥に人影がある。老年にさしかかった女性の後ろ姿だ。お参りを済ませ、背後で様子を窺っていると、突如振り向かれた。虚を突かれた僕は思わず、「何をされているんですか」と発してしまったのだが、その時のこの女性の眼光の、険悪を通り越した鋭さは、三年を経た今も忘れられない。彼女は「見ればわかるだろう。祈ってるんだ」とこれ以上ない無愛想さで答え、再び紙に書かれた祝詞らしきものを一心不乱に読み始めた。地面に広げられた白布の上に並べられた供物の種々は、米、酒、果物などが中心だったが、他にも衣類やら書物やらが所狭しと並べられていて、まるで店でも開いているかのようだった。僕はここで一体なにが行われているのか、すぐに理解できなかったのだ。


写真中程の左端に祈りを捧げる女性


気を取り直して沖津宮に向かう、と言いたいところだが、沖津宮は仲津宮から海を60m渡った先の小島にあるのだ。もちろんそれを見越して大潮の日を狙い、僕は長靴まで用意して行ったのだが、思いのほか潮位は下がらず、これは無理だろうと諦めたその時だった。



島の漁師と思しきおじさんが、何かを手にぶら下げてじゃぶじゃぶと海に入っていくではないか。ウェーダーという胸元まであるゴム長靴着用だ。ぶら下げているのはお供え物だろう、やがて海を挟んだ向かいの島に上がると、鳥居の前で一礼して山を登っていった。

海を渡り、沖津宮に向かうおじさん


阿曇族は北九州を拠点にかなり広域を往来していたようだ。対馬には各地に磯良の伝承が残り、和多都美神社の境内には磯良の墓とされる石塚がある。朝鮮半島沿岸の地理や情勢にも明るかったに違いない。

対馬 和多都美神社 磯良恵比寿

また、長野県中部の安曇野は彼らが移住した地だ。穂高神社の主神は穂高命、別名「宇都志日金拆命(うつしひかなさくのみこと)」であり、綿津見命の子とされる。志賀海神社の境内摂社、今宮社にはこの穂高見神と安曇磯良神が祀られている。さらに八幡愚童訓や琉球神道記には、安曇磯良神は鹿島、春日の神と同体異名という不思議な伝承も記されている。この三社が鹿に関係が深いのは言うまでもない。阿曇族の足取りは、以上の地をはじめ、渥美、熱海、飽海など全国各地にわたり、今も地名にその痕跡を残している。


日本の古代史を俯瞰すると、北九州沿岸の海民が各地にもたらした影響に加えて、様々な神話、伝説、史実の伏線になっていることに気づく。志賀島も海上交通の要所であり、三韓征伐や白村江の戦い、元寇などの舞台となっただろう。そのありようは、宗像大社や住吉神社に類似する。海民の足跡を辿る旅は、僕たちに意外な日本の姿を見せてくれる筈だ。


(2015年12月12日)


参考

「日本の神々−神社と聖地 第1巻 九州」 谷川健一編 白水社 2000年

志賀海神社ホームページ

Wikipedia 志賀海神社、志賀島、阿曇氏