青島神社:宮崎県宮崎市青島2丁目13番1号


市街地から日南海岸沿いに車を走らせると、等間隔に植樹されたフェニックスが、訪れる者の情趣を南へと誘う。県木のフェニックスは、アフリカのカナリー島を原産とするヤシ科植物だ。ヤシは何ゆえに人の心を南へと誘うのだろうか。柳田國男が伊良湖岬に逗留した際のエピソードを島崎藤村に話したことから詩になった「椰子の実」ではないが、南方から何かがやってくると云うイメージは日本人の心奥に刻みつけられたものだ。それは、憧憬、郷愁、畏怖が入り混ざった、薫り高く甘美なもので、ゆえに僕たちは南に惹かれるのではないか。

青島神社は、鵜戸神宮に並び、宮崎南部の観光聖地の代表だ。明治時代においても全国一の避暑地として有名であり、年配の方々なら高度経済成長期にハネムーンのメッカだったことを記憶しているだろう。現在でも年間70万人が訪れ、青島神社の境内は観光客で溢れているが、それでもこの島は聖域然としている。

島には架橋されているが、車では中に入れない。青島は十八世紀中頃まで禁足地で、神職と島奉行以外は立ち入りを禁じられていた。但し、旧暦3月16日から月末までの半月は、一般の入島が許され、それ以外は対岸の拝所から遥拝したとの由。三月の島開きはどこか琉球弧の島々の浜下り(サニツ)を思わせる。また、旧暦6月17~18日の夏祭は、対岸まで神輿の渡御が行われ、氏子を巡幸した後、神輿を漁船に載せて青島を二周し、お旅所に一泊して還御する。この神幸祭は、熊野速玉大社の御船祭や、沖縄の各島での爬竜(ハーリー)を髣髴とさせる。いずれも黒潮でつながっているように思う。
さて、鬼の洗濯板を右手に望みながら、歩いて橋を渡る。やがて鳥居が出迎え、左手に折れると境内だ。社殿は火災で焼失後、昭和49年に建て替えられたもので古社の趣はない。祭神は、記紀神話で山幸彦として知られる彦火火出見尊、その奥方の豊玉姫命、そして彦火火出見尊を海神のもとに導いた塩筒大神だ。由緒には「彦火火出見命が海宮からお帰りのときの御住居の跡として三神をお祀りしたと伝えられている。」とある。境内社は、拝殿向かって右に海積神社、左に石神社と、それぞれ海の神、山の神を祀っている。



僕が注目するのは、境内の奥にある元宮だ。群生するビロウ、アコウなど、植生からして南島を想わせる。夏であれば噎せ返るであろう、独特の湿った空気に包まれたこの場は、ジャングルさながらである。時折陽光が射しこむが、生い茂る樹々であたりは仄暗い。白衣を纏ったノロが、香炉を前に手を合わせる姿が幻のように眼に浮かぶ。沖縄の御嶽そのものなのだ。古くはここに小祠があったらしく、当地から弥生式土器、獣骨等も出土していることから、露天祭祀が行われていたものと推定される。



この社叢は「青島亜熱帯性植物群落」とされる国の特別天然記念物だが、なぜこうした形で存在しているのだろうか。出所は明らかにされていないがWikipediaの「青島」の項を引用しておこう。「本来ならば寒さにより枯死する高緯度の場所にこのような熱帯性及び亜熱帯性植物の植物群が存在する理由として、学者により二つの説が提起されている。一つは海着帰化植物説といい、島の沖を流れる黒潮によりフィリピンや沖縄方面から南方系の植物の種子や生木が漂着し繁栄したという説。もう一つは遺存説といい、第三紀前に日本で繁栄した高温に適する植物が気候、風土、環境に恵まれたこの場所に取り残され、今日まで繁栄したという説。現在では後者の遺存説が有力視されている。」


青島の西2kmほどのところには、縄文時代後期から晩期の松添貝塚があり、鯨、亀、魚の骨や多種類の貝、装飾を施した骨針などが出土している。ここにいた縄文人は漁撈を営む海民であったことは間違いなく、記紀神話成立の遥か以前からこの島を神聖視していたであろうことを伺わせる。

南からやってくる何かは、折口信夫のいう「まれびと」、来訪神であり、僕たちの祖先だ。黒潮に運ばれてきた南方の人々はやがてこの地に定住し、海の彼方にいる自分たちの祖神を想い、ここ青島の森の中に祀ったのだろう。僕たちの中には少なからず南の血が流れているのだ。


(2017年3月13日)


参考:「日本の神々−神社と聖地 第1巻 九州」 谷川健一編 白水社 2000年