鉾立宮:宇佐市南宇佐字大宮迫
阿良礼宮 : 宇佐市南宇佐84-2
椎宮:宇佐市南宇佐字椎宮650

宇佐神宮を参拝したら、あとは六郷満山の主要な寺院を巡るのが一般的な観光コースだろうが、それだけでは勿体ない。宇佐周辺は思いのほか奥が深いのだ。宇佐神宮からほど近い場所にある古代祭祀の場所をいくつか紹介しよう。
宇佐神宮の東参道を出ると、長閑で豊かな田園風景が広がる。弓削道鏡事件の舞台となった摂社大尾神社(元上宮)の前の道を右に折れる。南に向かってしばらく歩いていくと、左手に鉾立宮と書かれた看板が立つ。ここを入っていく。石の玉垣に囲われた中に、榊が一本立っている。神籬、カミの依り代だ。ただ、それのみである。

皮膚感覚としてカミが降りる場だということがわかる。なんの気構えもなかったからか、この場の聖地としてのあり様に、珍しく身が竦み、肌が粟立つ。無社殿の神社といえど小祠があることは多く、ここまでプリミティブな祭祀場は珍しい。なにもないということが却って場の聖性を際立たせているのだ。社伝は以下の通りだ。「祭神  八幡大神  欽明天皇三十一(五七〇)年に応神天皇の神託が大神比義翁にあり、翁がここに鉾を立てて神座とした。以来、和銅五(七一二)年までの一四二年の間、朝廷の詔により、比義翁が玉垣の中の鉾に向かって祭文を奏した聖地である」(大神氏は代々宇佐神宮の神職を務める大和系氏族)さて、ここから四百メートル先にはこれを凌ぐところがある。阿良礼宮だ。
鉾立宮から道なりに南に下ると川に差し掛かる。その手前の細い道を左に入り、川沿いに行った先、川中の洲の小さな森が阿良礼宮だ。玉垣が巡らされた中に社号の石碑があり、注連縄が掛けられている。琉球の島々にある名もなき拝所のようだ。禁足地とのことだが、先の鉾立宮のような感触ではない。僕はこの小さな森の中で、ゲゲゲの鬼太郎とねずみ男が例の格好で昼寝している姿を想像してみた。しかし、なぜこのようなところに祀られているのかが気に掛かる。


阿良礼宮には八幡大神の顕現が伝えられている。八幡宇佐宮御託宣集をはじめ、いくつかの出典があり、多少の異同があるが、子供向けに書かれた「八幡愚童訓」がわかりやすいので、これを参照する。
「大神ノ比義。五穀ヲ絶テ三年ノ間給仕シテ。第三十代欽明天皇十二年正月ニ。御幣を立テ祈請シテ言サク。年来籠リ居テ仕へ奉ル事ハ。甚形頭はタゞ人にアラザルニ依テ也。若神ナラバ我前ニトテ懇念ヲイタス時。翁忽ニウセテ。三歳計ノ小児トナリテ。竹ノ葉ニ立給テ言ハク。我者日本人王十六代誉田天皇也。護国霊験威力神通大自在王菩薩ト告玉テ。御スガタカクレテ。百王鎮護第二ノ宗廟トイ也」
当地に籠って三年間五穀断ちの修行を行っていた神職の下に翁が現れ、小児と転じて竹の葉の上に立って、自らを誉田天皇(=誉田別尊=応神天皇)、すなわち八幡大神と名乗ったという伝承である。大神比義なる者の修行は、神職というよりも修験者を思わせる。鉾立宮や阿良礼宮のある宮迫の地は古くから社僧の集落であり、毎朝百段を登って上宮で神前読経を行っていた (広報うさ2012年1月5日号) というが、当地が神仏習合の先駆けであったことはこの伝承成立に関係している筈だ。また、タゞ人にアラザルとか、翁忽ニウセテ。三歳計ノ小児トナリテ、といったあたり、なにやら能を思わせる霊験譚だ。八幡愚童訓の成立は鎌倉時代の中後期、然もありなんである。
 
次に向かったのは、椎宮だ。椎根津彦神社とも呼ばれており、宇佐高田医師会病院の敷地内にある。元は注連縄を張った椎の大木があるのみだったらしいが、現在は三つの小詞がある。鉾宮、阿良礼宮に比すと、住宅地にある病院の敷地内ということもあり、今は祭祀場という感は薄い。だが、往時に想いを馳せ、頭の中で風景をつくってみると、妖しく幹をくねらせた椎の木の下でカミを降ろしているシャーマニックな人の姿が見えてくる。

祭神は八幡神ではなく、椎根津彦命だ。案内板の由緒を写す。
「椎ノ宮神社ともいわれ、『日本書記』によれば紀元前667年10月5日神武天皇が御年45歳の時御東征を決意され、日向を出発し潮流の激しい豊予海峡の速吸門まできたときに、国つ神の漁師珍彦が現れ、神武天皇に水先案内を申し出た。天皇は椎の棹を珍彦に授けて無事に難所を渡ることができたので、椎根津彦の姓を授けた。天皇一行はこの椎宮神社付近に上陸したと伝えられ、後にこの地に椎根津彦を祀った。(後略)」
日本書紀の記述ということは、この由緒にも大和朝廷の意向がかなり反映されていると見た方がよい。椎宮が宇佐神宮の裏手にあるということからして、八幡神と無関係の筈はない。椎の木に因んだ神武東征神話を創作し、元よりあった信仰に被せたように思うのだが如何だろうか。
 
八幡信仰の研究者である逵日出典氏は、これらの場はすべて当地の豪族、宇佐氏を中心とした御許山の神体山信仰としている。前回の投稿で触れたが、御許山の山頂には三つの磐座があり、最初にカミが降臨した奥宮として現在でも大元神社が坐すが、これを山宮として、北麓から平野部にかけて祭祀の場、里宮、田宮が点在するという構図である。宇佐神宮境内、菱形池の畔にある御霊水も水を巡る祭祀の場といわれているが、目を凝らして歩けば、まだまだこうした聖地は見つかるのではないだろうか。
本稿で紹介した聖地のいずれにおいても、僕はそれとなくカミを感じとった。だが、それがどういうことなのかはうまく言語化出来ない。霊感ではない。空間を認識する中で、意識が変容するとでも言えばよいのだろうか。五感が研ぎ澄まされ、統合された先にある何かが、カミを感じさせるのではないかと思うのだが。
 
カミとは何だろうか。
 
(2015年6月15日)
 
参考:「八幡宮寺成立史の研究」逵日出典著 続群書類従完成会刊 2003年
「八幡神と神仏習合」逵日出典著 講談社現代新書 2007年