幣立神宮:熊本県上益城郡山都町大野712
いかがわしさが横溢する聖地というものがある。そうした場は概して歴史が浅く、且つ底も浅い(ような気がする)。がっかりすることが多いので、こうした匂いのする場にはなるべく近づかないようにしているのだが、一方で野次馬根性もあって、偶に立ち寄ってみたりもする。いかがわしい聖地にはいくつかの共通項がある。由緒が荒唐無稽、社伝の他に文献がない、自らパワースポットを名乗る、御利益を前面に打ち出す、奇妙なモニュメントがある・・・阿蘇の周辺にはそうした所が特に多いように思う。阿蘇白水龍神權現、宝来宝来(ほぎほぎ)神社が代表例だが、いずれも創祀は平成だ。信仰に古いも新しいもないが、どうにも怪しさを拭いきれない。前者は生きた白蛇を見世物にし、土産物屋のようなプレハブ小屋で多種類のお守りを販売(通販もある)。後者は宝くじ当選祈願や財布の供養を売り物にしており、境内至る所におみくじの自動販売機があると聞く。
この稿でとりあげる幣立神宮の由緒も社伝、宮司の著書を除いては僅かに地誌しかないようで、内容はウィキペディアに頼らざるを得ない。以下に引用する。
「社伝によれば、神武天皇の孫である健磐龍命が、阿蘇に下向した際この地で休憩し、眺めがとても良い場所であると、幣帛を立て天神地祇を祀ったという。その後、延喜年間(901年 - 923年)、阿蘇大宮司友成が神殿を造営し伊勢両宮を祀り幣立社と号した。天養元年(1144年)には、阿蘇大宮司友孝が阿蘇十二神を合祀し大野郷の総鎮守とした。
現在の社殿は、享保14年(1729年)、細川宣紀により改修されたもの。明治6年(1873年)、郷社に列した。なお、天孫降臨の伝承を持つ高千穂にも近く、他にも神話、伝承などが伝わる。」
だが、拝殿で参拝を済ませ、境内のそこここに祀られた神々の社を見て回る内に、徐々にそのいかがわしさに気づいていくことになる。祭神は、神漏岐命、神漏美命、天御中主神、天照大神、阿蘇十二神とされているが、他にもありとあらゆる神々が祀られている。祭神である神漏岐(カムロギ)命、神漏美(カムロミ)命は記紀には出て来ない。イザナギ、イザナミ以前の神だというが、造化三神にこの名はない。さらに、幣立神宮には樹齢1万5千年なる檜の巨樹があり、この神木に天孫が降臨したというのだ。
https://kumamoto.guide/look/terakoya/104.html
天孫とは瓊瓊杵尊のことを指していると思うが、仮に記紀神話が史実だとしても、さすがに1万5千年前には遡れない。ニニギの影も形もない時代だろう。屋久島の縄文杉で樹齢3000年から4000年、もっとも樹齢の長い樹はスウェーデンにあるトウヒ(唐檜)で9550年だ。1万5千年前といえば、旧石器時代後期から縄文時代草創期にあたる。神観念はあったとしても、天孫降臨が今日に伝えられることなどあり得ない話だ。
社殿や神木の前には、案内板が立ち並び、当社の由緒が数種あるなど、その内容は著しく一貫性を欠く。さらに世界、地球、宇宙、平和といった言葉が散りばめられ、果てにはモーゼ、キリスト、釈迦、孔子らが訪れたとあるのだ。苦笑を禁じ得ないのだが、宮司は大真面目なのだろう。まだいくつかある。そのひとつは、この神社ならではの特色ある祭祀、五色人祭だ。五色人は世界の人種を五色(黄・赤・青・黒・白)に分類したもので、この祭りはそれら人種の融合を図り、世界、人類の平和を祈念するものだという。偽書に関心のある方はおわかりだろう。五色人の出典は、あの「竹内文書」なのである。
もうひとつ。当社が主張するものではないが、幣立神宮が中央構造線の線上にあるというもの。いわゆるレイラインである。東から、鹿島神宮、香取神宮、諏訪大社上社本宮、分杭峠、豊川稲荷、伊勢神宮、天河大弁才天社、高野山、淡路島、石鎚山、そして幣立神宮が位置するという。早速グーグルマップで検証してみた。結論は、中央構造線の上にはない。直線で約7kmも南に下った場所にあるのだ。
もういいだろう。当社は元々このような神社ではなかった筈だ。健磐龍命が創祀に関与したのなら、阿蘇神社に所縁のある神社のひとつで、この一帯の鎮守だったと思われる。いつ頃からこうなってしまったかはよくわからないが、前述の竹内文書が昭和三年に公開され、戦後に改訂を加えながら流布していったことと同期するのではないか。これが近年のパワースポットブーム、インターネットをはじめとするメディアによって増幅していったと見るのが適当だろう。その点から現在の幣立神宮を評すると、一種の神道系新宗教施設とも言えよう。
いかがわしさばかり綴ってきたが、幣立神宮の社殿の裏手、山を下ったところにある東御手洗と、国道218号線を挟んで西北西の方向にある西御手洗の二社はたいへん清々しく気持ちのよい場所だ。それぞれ龍神、水神を祀ってあるが、湧水地であり、農耕との関連が色濃く伺われる。幣立神宮に漂ういかがわしさは殆ど感じられず、鎮守らしい安心感があるのだ。だが、この両社も幣立神宮の管理下にあり、立て札には常軌を逸した由緒が書き連ねてあった。
東御手洗西御手洗
幣立神宮のように一見もっともらしく、よく目を凝らすと疑問符だらけの聖地は数多ある。だが、俗臭紛々としていても、そこには信仰もあれば、信者もいる。そのことから目を逸らしてバッサリ切り捨てるべきではないだろう。他方、僕たちが気をつけなければならないのは、ひそかに機を窺っている極端で過激な信仰や思想だ。これらは俗人受けを狙い、巧妙に外見を繕い、その正当性を声高に主張する。あなたが信じて疑わない物事にもそうした罠は潜んでいる筈だ。知らず知らずの内に染まってしまうことで、いずれ僕たちの足元を脅かすこともあり得るかもしれない。
聖と俗はコインの裏表だ。幣立神宮はどちらか片方から見るだけでは本質に迫れないというのが、今の僕の結論だ。恐らくはこの場も人も限りなくおおらかで、これからも多様な神々のみならず、聖俗併せてすべて呑み込んでいくのだろう。しかし、その中核はどれだけ呑み込んでも空洞なのだ。それはいかがわしさをもたらすと同時に寛容さの証左でもあり、世界でも類を見ないシンクレティズムを可能ならしめてきた日本人のメンタリティの根底にあるものではないだろうか。
(2016年4月10日、2014年11月15日)