勝坂遺跡は米軍座間キャンプにほど近い丘陵地にある。一帯は縄文時代中期の大集落跡とされ、勝坂式土器の標式遺跡にもなっている。周辺はいかにも郊外の住宅地然としていて、こんなところに遺跡が、と思うが、首都圏の遺跡は団地や学校の中にあったりするのはまだいい方で、田畑や住宅に上書きされてしまっているものが殆どだ。遺跡は文化的、史料的価値は高いが、経済的価値は生まない。時代が移ろえばそうなっていくのは仕方のないことなのだろう。数千年前から人間の居住に適したところは同じようなところの筈で、水や食料調達、日当たり、移動などの便がよく、安全な場所だろう。
駐車場に車を停め、森を目指して進む。公園として整備されているものの、今でも縄文人の生活のありようを髣髴とさせるような景色が広がっている。森の中の遊歩道をしばらく歩くと、丘の上に出る。そこには原っぱが広がり、敷石住居跡や復元した竪穴式住居が点在している。縄文人が食料として好んだ栗の木も植えられている。
ここが有鹿神社奥宮である。永く祀られていることがわかる。周辺の景観も相俟ってか、厳かというよりもどこか大らかさを感じさせる佇まいだ。初めてここを訪れた時は、夕立があがって間もない夏の夕方で、奥宮の先には靄がかかっていた。ゆっくりと動き、たなびく靄の奥には何者かがひそんでいそうだ。足元がぬかるんでいて、くるぶしまで泥まみれになりそうなこともあり、入っていくことは躊躇われた。
後日再訪した際、この小川沿いに湿地を分け入っていくと、丘の斜面にとても小さな白い鳥居があり、そこから水がこんこんと湧き出ていた。森の中で川のせせらぎや鳥の囀りを聞いていると、身体が浄められていくような清々しさを覚える。湧水地はどこもそうだが、神々しさに溢れている。
この奥宮から7km南に下ったところに有鹿神社本宮がある。少し長くなるが略記を引用する。「相模国の中原に位置する有鹿郷(現在の海老名市)の誕生と発展を物語る総産土神であり、神奈川県で最古の神社である。太古の昔、相模の大地は海底にあったが、次第に隆起し、森林を中心とした緑なす大地が形成された。縄文の頃より、有鹿谷にある豊かな泉は、水神として、人々の信仰の対象となった。この泉の流れ落ちる鳩川に沿って、農耕生活が発展し、有鹿郷という楽園が成立した。この郷の水田(海老名耕地)における農耕の豊饒と安全を祈って、「水引祭」が起こり、有鹿神社はご創建されるに至った」とある。本宮は有鹿比古命、男神の太陽神を祀り、奥宮は有鹿比女命、女神の水神を祀っている。また、当社は水引祭という他に見られない神事を行っている。有鹿比古神は、毎年四月初めに石の依り代とともに奥宮に遷座し、六月半ばに本宮に還ってくる。有鹿神社のホームページには「アルカは古代の言葉で水を表す」とあるが、奥宮の湧水は勝坂遺跡周辺に集落が発生した往古から尊ばれ、祭祀の対象とされてきたのだろう。当社には中宮もあるが(現在は本宮近くに遷座)、鳩川で結ばれた奥宮、中宮、本宮のラインと水引祭は、水に恵まれ、豊作を祈念する予祝神事に呼応しているように思われた。
有鹿谷を出て、住宅地の中を北西に向かう。勝坂遺跡A区と称する勝坂式土器が発見された台地があり、その奥の小さな山の上には延喜式内社石楯尾神社の論社が坐す。JR相模線と米軍キャンプに挟まれた場所とは思えない、喧騒とは無縁の水の聖地である。
(2017年6月11日、2015年7月24日)