性とは心の源なのだ・・・。
その源が、
うんざりして、とじこもって、いらついて、はなれるのだ・・・。
これはよほどのことなのだ、
心のあり方がどうも気に食わないのだ・・・。
心に貪欲があるからなのだ・・・。
心に嗔忿があるからなのだ・・・。
心に癡奢があるからなのだ・・・。
心に溺愛があるからなのだ・・・。
心にこれらがあることが、
性は気に入らないのだ・・・。
それはそうなのだ、
欲深くて、怒りっぽくて、
贅沢三昧にして、溺愛しているのを
見てはいられないのだ・・・。
と言って、
性が心に止めろと言っても、
心は自分で決めると言うのだ・・・。
つまりなのだ、
性は身体の主だが、
実行役ではなくて、
心が実行役なのだ・・・。
心が間違って仕舞えば、
性は手の施しようがなくて、
悶々とすることしか出来ないのだ・・・。
心よ、
どうか気付いてくれと、
祈るばかりなのだ・・・。
そして心も心で、
間違っているかもしれないとは、
思っているのだ・・・。
思ってはいるが
正せていないのだ・・・。
これがもう世の中の人の
習いみたいなものなのだ・・・。
身体の主の性と比べて見ると、
心の誤りは一目瞭然なのだ・・・。
だから、本当にもう、
心がそれを正せるかどうかに
かかっているのだ・・・。
そこで
分かったことがあるのだ・・・。
身体を目一杯使うと、
自然に身体の主の性に
率うことになるのだ・・・。
身体の資質である、
貪嗔痴愛妄を一度、
徹底的に行って見ることなのだ・・・。
きっと、
心には源があると気付くのだ・・・。
その心の源は性であり、
性には何の曇りもないのだ・・・。
その性に従うと、
何事もなく事が運ぶことが
自然に分かってくるのだ・・・。
つまり、
心が性に従うと、
勝手なことをしなくなって、
何事も起こらないのだ・・・。
ここのところが大事なのだ・・・・・・・。
そこには、
心の入る余地はないのだ・・・。
目一杯身体を使うのだ、
何が本当なのかが
はっきりするのだ・・・。
このことが、
はっきりと分かったのだ・・・・・・・。
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