さて、続きになるのですが。

 

 昔読んだ「放送禁止歌」(森達也著2000年刊)という本がありまして、気になって読み直してみますと森さんとデーブスペクターさんの対談のくだりに考えさせられるものがありました。

 

アメリカのポリコレ(ポリティカルコレクト)運動は60年代に起きたフェミニズム運動の中で幾つかの言葉が槍玉に上がった事で、差別や偏見にもとづく表現を改めようと言う動きが80年代に入り黒人運動家、社会活動家、動物擁護家などを巻き込んで大きな流れを作り、政治的にも人種宗教性別年齢などによる差別を排除する動きななったようです。ふむふむ。


日本においてもこの流れから看護婦を看護師、スチュワーデスをキャビンアテンダントなどへの呼称の変更や、マスコミの差別的暴力的性的な表現の自主規制などポリコレの流れが現在に繋がっていると思えました。

 

しかし、デーブさんは日米のポリコレの差について大きく2つの違いを話されておりました。


1つはアメリカの場合、根底にピュータリズム(潔癖で厳格な生活をするべきと言う規範)がある事と多民族国家である事。

色んな人種が混在する中で差別は日常的であり、その中でピュータリズムの規範を拠り所にした運動が起きている背景に比べ、日本は単一民族国家であり、普段の生活の中で宗教的人種的差別が問題になっていない中でポリコレ運動が展開されていると。なるほど。



もう一つは市民が主体となった革命の経験が日本には無い事で本当の意味での民主主義、人権の意識が低い事。むむ?


アメリカにおいて差別の声を上げるのは差別された側の人達であり、権利は与えられるものでは無く勝ち取るものと言う意識が根底にありますが、日本の場合は権利とは与えられるもの、守られるものと言う意識が強いと言います。なるほど!


差別においてポリコレが叫ばれる一方で表現の自由もまた、人権の一つですが、アメリカでは日本のような一律の放送禁止用語や自主規制があるわけではなく、発信者の自由裁量に任せられている場合が多いと言います。文脈によっては差別用語だろうが発信を肯定し、政府や行政から指摘を受けようが断固非を認めない、その権利意識の強さをフルメタルジャケットの表現に見るような気がします。


この話は24年も前の話なので現在のアメリカは事情が変化しているのかはわかりませんが、ただ、日本においては少なからず現在も同じ問題を抱えているようにも感じます。


日本においてポリコレと言う規範が無い事でどれほどの社会的な問題があったのでしょうか。例えば看護婦と呼ばれて差別と感じていた人はいたのでしょうか。その人達は声を上げたのでしょうか。


差別を感じない当事者を差し置いて、所謂社会派の識者が世界基準と比較してその表現は差別にあたると囃し立て、発信者側はそう言う声が上がらないように配慮した自主規制を形ばかりに決め、あれもだめならこれもだめではないか?と表現を削っていく。


グローバル化した世界の中で単一民族国家の日本の規範が日本国内でさえ通用しなくなってきているのかもしれませんが、日本社会の中で敢えて必要に駆られない配慮は個人としての権利を逆に侵害しているのかもしれません。


昨年のLGBT理解増進法にまつわる騒ぎなども最たる例のように思います。


と、素人考えに思った次第であります。